イスラームへのまなざしイスラームとは何でしょうか。ためしに、インターネットのグーグル検索に「イスラーム」と入力して検索してみましょう。瞬時に、何と二百四十二万件もヒットします(二〇一〇年十一月二十六日アクセス)。これほど多くヒットする割には、イスラームは日本人に馴染みが薄いように思えます。そのイメージは、一般的には「テロの温床」「女性抑圧」「砂漠の宗教」といった、ネガティブなものではないでしょうか。確かに、イスラームの本家本元と言える中東地域は、毎日のように国際政治を悪い意味で賑わせています。このようなイメージは、日本だけではなく、欧米にも共有されているように思えます。 日本におけるイスラーム研究の歩み 日本のイスラーム研究の萌芽は、およそ百年前の日露戦争頃に遡ります。アジアへの進出を模索していた日本は、アジアにおけるイスラームの重要性に注目し、対外政策目的の研究を奨励し、研究機関の設立や専門研究者の養成に多額の資金を投入しました。しかし、第二次世界大戦敗戦によって、研究機関もすべて消滅し、一旦はイスラーム研究そのものも潰えました。戦後のイスラーム研究は、こうした負の記憶から逃れるように、総合的な地域研究よりも、歴史研究の分野に引きこもっていきました。 新たなイスラーム研究の始動一九九〇年代後半に、文部科学省の資金を得て、「イスラーム地域研究」プロジェクトが始まりました。これは、国内外の百名を超える研究者たちが研究グループを形成し、特定の研究を推進するプロジェクト方式の研究です。このプロジェクトは一旦終了した後、資金元を人間文化研究機構に変えて継続中です。今現在のプロジェクトの大きな目的は、(一)国際的な共同研究の実施による現代イスラーム世界についての実証的な知の体系の構築、(二)文献資料の収集・整備、史資料のデータベース化、情報公開、史資料利用の全国化・国際化の促進、(三)イスラーム地域研究に関する大学院教育の充実、次世代のイスラーム研究を担う若手研究者の養成、の三点です。東北大学のイスラム圏研究講座からは、私を含め二名の研究者が分担者として参加しています。 イスラーム法研究の新展開 このプロジェクトにおいて、私は「シャリーアと近代」という研究グループを、二〇〇八年に設立しました。シャリーアとは、アラビア語で「イスラーム法」を意味します。この研究グループが目指しているのは、今から百五十年ほど前の、十九世紀半ばに編纂されたオスマン民法典(メジェッレ)の総合的研究です。いささか古い法律ですが、この法典が中東地域に及ぼした影響は大きいものがあると言わざるをえません。この法典が公布された当時、オスマン帝国は、現在の中東だけでなく、アルバニアやブルガリアなどのバルカン半島も含めた、広大な領域を治めていました。そのため、この法典は、当時の「公用語」であったトルコ語、「準公用語」のフランス語だけでなく、帝国臣民の多様性に鑑みて、アラビア語やギリシア語、アルメニア語などの言語にも翻訳されました。特に中東では、一九二二年にオスマン帝国が滅亡した後も長く使われつづけました。 期待される成果この研究で一番期待される成果は、イスラーム法を、日本の人々によりわかりやすく発信することです。イスラーム法については、ヨーロッパの法体系とはまったく発想の異なる厳格な宗教法、神聖法であるという、一種行き過ぎた解釈が固定化しているのではないでしょうか。しかしながら、契約や贈与といった、実際の社会で生活する人々にとって最も重要な民法分野において、イスラーム法は日本の法学でも十分に理解可能な、しごく当たり前の法体系を有しているのです。近年、巷で話題のイスラーム金融については、日本語の本でも既に十冊を超えました。しかし、そのほとんどは近代の金融学からイスラーム金融を説明しただけのものであり、片手落ちの感が否めません。オスマン民法典には、契約や賃貸借、債務免除など、現在のイスラーム金融で通用する条文が体系化されています。これを日本語に訳し、データベース化してウェブ公開する、あるいは適切な解説を付して刊行するなどの手段によって、イスラーム社会の法文化のあり方に対する理解が今よりもさらに進むことを期待しています。あまり専門的になり過ぎず、わかりやすい訳にするためにはどうすれば良いか、苦心の日々がしばらく続きます。
|
大河原 知樹(おおかわら ともき) |