博物館の役割 天気のよい日に青葉山に登り、円筒形の建物が特徴的な理学部自然史標本館を訪ねてみましょう。展示室中央に置かれた大きなステゴザウルス骨格標本の後ろに、標本館の目玉の一つであるウタツギョリュウ(図1)が展示されています。標本に添えられているパネルには、この標本が世界最古2億4100万年前のギョリュウの「完模式標本」と説明されています。「完模式標本」とは何でしょうか?新しく発見された種に学名を付けて報告するときには、その種を定義するための根拠となった標本を模式標本として博物館などの研究機関に保管することが国際命名規約によって定められています。つまり、完模式標本ということは、この標本が世界でただ一つの基準標本であることを示しているのです。 博物館には、展示会や講演会のほかに、一般にはあまり知られていない重要な役割があります。その役割とは研究者を対象とする模式標本などの学術標本の閲覧や貸出しサービスの提供で、博物館は、学術標本について公共図書館と同じ役割を担っているのです。このような標本の閲覧や貸出しは、展示と同様に「ミュージアムの公開性の原則」の一部をなすもので、その起源をルネッサンス期までさかのぼる「知の公共性」という観念を体現する博物館の重要な機能の一つなのです。 図1 ウタツギョリュウ 撮影:根本潤 レプリカ標本 総合学術博物館には「ドルビニーの有孔虫模型」と呼ばれる石膏製の小さなレプリカ模型(図2)が保管されています。この拡大模型は、フランス人ナチュラリスト、アルシド・ドルビニーが一八二六年、有孔虫に関する最初の論文を発表したときに、当時高価であった顕微鏡を使わなくとも有孔虫を理解できるように製作し、研究所や博物館に配ったものです。東北帝国大学は一九二六年に、この模型をパリの標本業者から一六二円という当時としては大変高額な価格で購入したという記録が残されています。有孔虫のように標本の大きさが微小であったり、あるいは始祖鳥や化石人類のように標本そのものが希少なときに、展示や教育のため標本の代用として作られる精巧な複製模型をレプリカ標本といいます。博物館は、レプリカ標本のほかにも、彩色石版画やカラー写真、電子顕微鏡像など、その時代、時代で利用できる最高の可視化技術を活用することで、可能な限り正確な標本情報を提供するための努力を続けてきました。 図2 ドルビニー有孔虫模型 撮影:菊池美紀 現代の博物館 では、博物館の機能を「知の蓄積」と「知の公共性」とするならば、現代の博物館はどこにあるのでしょうか?「インターネット」の中に、これが私たちの考える現代の博物館の形態です。最近のデジタル情報技術の進歩と急速な普及により、標本デジタル化技術の活用は博物館にとって情報公開のために不可欠なものになりつつあります。ごく近い将来、デジタル標本は、モバイル・インターネットコンテンツとして学校教育の現場や博物館の展示室、さらには研究現場へ導入されると予想されており、さらに、デジタル標本の使用は、生物多様性や生命進化、歴史研究といった標本や資料による研究領域において新しい研究アプローチを生み出す刺激となると期待されています。私たちは、「知の公共性」の立場から、デジタル標本のライセンス形態(使用許諾条件)が最も重要な問題と考えています。ソフトウェア・ライセンス形態の一つ、「オープンソース」はソフトウェアを人類の共有財産とする考え方にもとづいており、この考え方は博物館の「知の公共性」と多くの共通点を持っています。そこで、私たちは、だれもが利用できる「オープンソース」のようなライセンス形態として学術標本はデジタル化されるべきであり、学術標本のデジタル化は非営利的な研究機関であり、かつ教育機関でもある大学博物館の意義ある重要なタスクと考えています。 電子レプリカ標本「e-Specimen」システム 私たちは、標本の三次元形状情報をデジタル化するためのシステムとして「e-Specimen」の開発を進めてきました。システムは、標本作成と標本閲覧の二つのサブシステムから構成されます(図3)。標本は、高解像度X線CT装置を使って撮影され、形状情報を積層断層像としてデジタル化、さらに登録情報や産地情報などの標本情報を加えて「molファイル」として電子レプリカ標本化されます。電子標本は閲覧ハンドリングソフト「Molcer」(図4)を使うことで、拡大縮小、回転平行移動、任意面でのカット像など自在に閲覧できるほか、電子標本の形状情報を積層断層像形式、または標準三角パッチ言語形式で出力することで他のソフトを使う形態解析や模型制作に利用することができます。このソフトは共同研究パートナーであるホワイトラビット(http://www.white-rabbit.jp/molcer.html)からだれでも無料でダウンロードすることができます。有孔虫は、海洋表層から海底まで幅広い環境に適応し生息している原生生物です。有孔虫の方解石でできている殻は化石として海成堆積層に豊富に含まれていることから、地層の地質年代や過去の海洋環境の推定に広く利用されています。東北大学は有孔虫研究の世界的拠点として活動してきた長い歴史があり、たくさんの重要な学術標本が保管されています。そこで、私たちは有孔虫電子レプリカ標本を配信するための実験サイト「e-Foram Stock」(http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/e-foram/indexj.html)を二〇〇八年に構築し、運用しています。この実験サイトにはさまざまな国や地域からアクセスがあるほか、英語版ウイキペディアの有孔虫ページからリンクが張られており、インターネット・コンテンツとしての自律的な増殖もはじまっています。 デジタル標本の将来性 ここで紹介したX線CT技術によるデジタル標本は、標本の「かたち」を取り出し、デジタル化する技術です。このデジタル標本は、「かたち」研究を最新のデジタル情報技術へつなぎ、新しい研究領域を拓くリンクといえます。博物館が保管する標本、例えば生物標本ならば、その生物の形態、色彩、生物の体を作る素材、遺伝情報やその生物が生きていた環境の情報など、実に多様な情報をもっています。私たちは、これら多様な標本情報のデジタル化が博物館の標本に新しい活用可能性と豊かな研究展開を生み出すことを期待しています。図3 電子レプリカ標本システム構成 図4 標本閲覧ソフト「Molcer」表示画面 |
佐々木 理(ささき おさむ) 1958年生まれ 東北大学総合学術博物館 准教授 専門/情報古生物学 関連ホームページ/http://www.museum.tohoku.ac.jp/ |