音の伝わらない世界

南部 健一=文
text by Kenichi Nanbu


 子供の頃住んでいた村は、秋には、黄金の海に浮かぶ孤島になりました。私も鎌で稲を刈り、広い田を縦に刈り進むと、途中で腰が痛み泣きたくなったものです。収穫が終わると、村には米泥棒が出没しました。村の中央にある1軒の家に巨大な太鼓が釣り下げてあり、夜陰に乗じて泥棒が村に侵入したときは、この泥棒太鼓が打ち鳴らされ、村中に響きわたったものです。
 その頃は、音が四方八方に伝わるのは当然のことと思っていました。中学では、音が縦波であることや、音速の大きさ、温度とともに音速が増すことを学びました。しかし、なぜ音がこのような性質を持っているのか分かりませんでした。音が伝わる本当の原因が分かったのは、大学で気体分子運動論を学んだときです。
 音を伝えるのは空気を構成する分子ですから、音速は高々分子の速度程度となります。温度が高いと分子の速度が増すので、音速も大きくなります。この説明は明解です。
 例えば、飛行機のエンジン音のように音源がある速度で動いているとしましょう。飛行機の速度が音速以下なら、音は飛行機より速い速度でどんどん飛行機の前方へ伝わります。すなわち、音の先頭(波面)と飛行機の距離は時間に比例して大きくなります。飛行機のはるか前方にいたとんびは、音を聞きつけて難なく逃げ去るでしょう。
 飛行機がマッハ2(音速の2倍の速度)の超音速機の場合はどうでしょう。音は、決して飛行機の前方には伝わりません。音は、図に示す頂角60度の円錐の中に閉じ込められます。しかも、この円錐面は衝撃波になっており、円錐内部の空気は圧縮されて、圧力も温度も急上昇しています。音が伝わらない円錐前方の大空を遊泳していたとんびには悲劇が待っています。突然、衝撃波に飲み込まれ失神するしかないのです。また、飛行機の真下の牧場でのんびり草を食んでいた乳牛は、ドカンという音とともに空から降ってくる円錐状の衝撃波に取り込まれ倒れこみます。命に別状はないものの、ショックのあまり数日は乳が出なくなるでしょう。

超音速で飛行する
音源(円錐の頂点)と
音の波面(円)

 人間のスピードに対する欲求には、際限がありません。大気圏に再突入する宇宙船の速度はマッハ20を超えます。衝撃波の背後の気体は、あまりにも高温のため分子は切れて原子になり、原子の周囲を回っていた電子はより大きな軌道に移ったり、軌道から脱出して自由な電子になったりします。
 こうなると、気体の一部はプラズマになり、オーロラのように光り輝きます。もはや音どころか電波も伝わらなくなり、宇宙飛行士と地上との交信は不可能になります。プラズマ中の電子の振動が電波の伝播を妨げ、宇宙飛行士を孤独にするのです

極超音速飛翔体模型周りの光るプラズマ流







なんぶ けんいち
1943年生まれ
現職:東北大学流体科学研究所教授
専門:流体力学
   希薄気体力学
   プラズマ工学