高山樗牛(たかやま ちょぎゅう、本名は林次郎、1871-1902)は明治時代の日本の文芸評論家、思想家、『滝口入道』の作者としても知られていますが、彼は二高に学び東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1896(明治30)年に二高の教授となりました。ところが翌年医学部と大学予科生徒間の確執から校長排斥の全校ストライキとなり,吉村寅太郎初代校長が第四高等学校に転出し、のちに東北帝大の総長となる沢柳政太郎が赴任し、紛争解決後に,9人の教授が辞任していますが高山樗牛も辞任した一人でした。その後博文館に入社し『太陽』編集主幹をつとめ、活発な発言をなし,オピニオンリーダー的存在でした。1900(明治33)年には文部省から留学を命ぜられ、帰国後は京都帝大の教授となる予定でしたが、肺結核で留学を辞退し、若くしてなくなりました。
ところで宅地造成が進みだした頃、樗牛瞑想の松が伐採の危機があり「瞑想の松保存会」が1941(昭和16)年頃にはあったようです。成田正毅著『高山樗牛冥想の松』を引いて、東北薬科大学の松山雄三教授が「高山樗牛と『冥想の松』」という研究ノートに書いています。
1941(昭和16)年にこの松の根元に石碑が建立されます。刻された詩は樗牛の友人土井晩翠(1871-1952)の作、書は樗牛の学友笹川臨風(1870-1949)の手になるものでした。
笹川は「天神山の一本松は幾も々とせの翠濃やかに、霜零るあした、雪降る夜に、亭々たる操凛々しく、松風颯々の音今に絶えざるが、此に樗牛君の若かりし日の純愛なる情話を傅へて、更に薹の原の名物となりしこそゆかしけれ。とはの青春、朽ちせぬ憶ひ出、胸に燃えし血潮の炎は映えて、人間樗牛の姿を永遠に貽すぞ殊勝なる。姑らく樹下に徘徊して、ありし世の君の俤を偲び、眦を決して、遠く烟波の浩渺なるを望み、近く丘陵の起伏と青葉城下の殷賑なるとを俯瞰すれば、疆りなき人生の流転と悠久なる文化の展開とを思はざるる得ない。ああ冥想の松よ、とこしへにさきくあれ。」と献辞を寄せ、土井は「「皇紀二千六百一年六月一日仙薹市の北部薹の原の丘上に聳ゆる<一本松>のもとに『高山樗牛冥想の松』の記念碑が建てられた。…絢爛無上の歴史小説『瀧口入道』の著者、明治批評壇の飛将軍、享年僅か三十二、しかも明治文学史上に不朽の英名を残した文学者、高山樗牛博士は第二高等学校の先輩として、私が百仞の懸崖近寄り難しと畏敬した天才であった。」と献辞を寄せていました。(松山前掲ノートより引用)
現在は、東北薬科大学のキャンパス内にあり,同大学により木碑が建てられ,展望台も作られています。