二高北六記念苑で紹介した現農学研究科の地にあった二高は1945(昭和20)年7月9日の仙台空襲で全焼してしまいました。8月21日~9月17日にかけて野口明校長は三神峯にあった旧仙台陸軍幼年学校(なだいなだ,いずみたく等が在籍したことでも知られる)に移転のため奔走し、9月21日には三神峯で授業が開始されたといいます。10月26日に三神峯移転が正式に発表され、移転が進みますが、1946(昭和21)年三神峯明善寮が失火により3分の2を焼失。1947(昭和22)年10月26日創立60周年記念式が行われますが、11月21日生徒大会が開かれ、「学校の市内への復帰決議」がなされています。しかし,学校当局と仙台同窓会幹部は復帰に反対し、12月3日には野口校長が三神峯残留を宣言することになります。1948(昭和23)年3月3日の教授会で東北大学との合併が決議され、1950年2月10日に最後の卒業生を出し、三神峯は二高終焉の地となりました。
下の絵は『尚志』最終号(通刊98号)に掲載された三神峯の風景です。この絵の説明に、これまで「これは二高事務官をされた早坂はしめさんが三神峯本館の窓から描いたものです。」としておりましたが、二高尚志会の方々よりご指摘いただき次のように説明文を改めさせていただきます。ご指摘に感謝申し上げます。
『これは終戦当時の仙台陸軍幼年学校の最上級生だった長澤政輝画伯によるもので、幼年学校から二高まで引き続き事務官をされた早坂はしめさんから提供されたものです。』
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この地に立つ「二高尚志の碑」(涅槃の碑)は二高創立100周年を記念して同窓会(尚志会)が建立し,1986年4月21日除幕式がとりおこなわれたものです。この巨岩は加藤陸奥雄委員らが栗駒山の原石調査をしたが適当なものが見当たらず、市内造園業者が保有する伊予石(1.5m×1.5m×1m,5t)に決まったといいます。碑文は野口明10代校長の手になる短冊から取られています。学校教育法が公布された時「ここは大死一番、潔く涅槃に入ることこそが名門二高の末路として選ぶ道である。」とした野口先生の心境が碑文には吐露されています。
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『野口明文集』(昭和54年12月1日)所収遺稿「不如帖」より野口先生筆