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インタビュー

岡﨑 光治 (おかざき みつはる)
第24回 2011年1月26日更新 桜岡大神宮宮司・仙台工業専門学校 1950年卒業 坂本 壽郎(さかもと じゅろう)

1958年 東北大学教育学部音楽専攻科卒
1964年~1968年・1979年~1987年 NHK仙台放送合唱団常任指揮者
1968年~1969年 アメリカ・Los Angels 市日系混声合唱団常任指揮者
1987年 NHK仙台放送合唱団音楽監督 現在に至る
1974年 常盤木学園音楽科非常勤講師 現在に至る
1985年 尚絅女学院短期大学非常勤講師 現在に至る

日本作曲家協議会会員・日本電子音楽協会会員・仙台電子音楽協会代表・仙台作曲家集団所属・NHK仙台放送合唱団音楽監督


受賞歴

1977年 宮城県芸術選奨
1990年 NHK東北ふるさと賞
1999年 宮城県教育文化功労賞
2004年 仙台市市政功労者表彰  など


主要作品

・オーケストラのための「緋曲」-Ⅰ、Ⅱ
・オペラ「鳴砂」オペレッタ「キツネと魚屋」
・ミュージカル「炎の迷宮」「甦れ美し郷」
・現代舞踊のための「迦陵頻伽」「蔵王の空と風に」
・カンタータ「魂の坑道は果てしなく」
・ソプラノソロ、合唱、オーケストラによる「私たちは進む」
  (東北大学百周年記念委嘱作品)
・「青葉もゆるこのみちのく」(オーケストラ版編曲)
  他、合唱曲、シンセサイザー及び電子音楽など多数


東北大学祝典曲の作曲を手がけられた、本学OBの岡﨑光治先生。約30年に渡る「NHK仙台放送合唱団」の常任指揮者としての活動を始め、愛する歌曲に主眼を置いた音楽活動を続けてこられました。グローバル化社会だからこそ、音楽にも地域性が見直されてきた今、仙台の人々との触れあいを作品に吸い上げ、言葉への感覚を研ぎながら、そこに音の生命を吹き込む音楽創作の歩みについて、振り返って頂きました。

「言葉の魂を音楽に紡ぐ」

東北大学祝典曲「私たちは進む」に想いを乗せる

 この「私たちは進む」は、東北大学百周年の祝典曲として、記念コンサートの当日に百周年記念合唱団を指揮してお披露目した曲です。この「進む」の語には、私なりの考えがありました。

 人は様々にアクションを起こします。しかし、例えば一口に「見る」「聞く」といっても、場合によって意識の深度は全く違うと思っています。我々は、ひとつの行動の内面で必ず多くの思考を巡らせています。最も簡素な言葉こそが無限の広がりを持つことができる、と常々思っております。

 私たちは「赤い花」を見て感動した時、この感動を表現するための言葉を多彩に持っています。しかし、「赤い花を見た」、ただそれだけの言葉のほうが、受け手が様々なイメージでそれを受け止めてくれるのではないかと思うのです。そのような考えをあれこれ整理していくうちに、この曲の中心となる詞を「進む」に決めました。 とはいえ、演奏する皆さんに私の意図したことを理解して頂けるものか心配もいたしました。しかし、そのような危惧は全く不要でした。私の願いよりも遙かに深い心で、声で、音で皆さんが演奏をしたのです。その時、「おお!さすが、どっこい我ら、東北大!」と、心から母校を、母校の仲間たちを自慢したくなりましたよ。


弾きたい一心でピアノを自作した高校時代

 私は当初、本学の工学部に入学しました。ですが、当時、教育学部に音楽家の福井文彦先生がいらっしゃいまして、先生の強いお誘いで教育学部の音楽専攻科に移籍しました。

 なぜ工学部生だったかといいますと、ピアノを自作した経緯からです。高校時代私は音大に進みたかったのですが、「音楽をやるなどとんでもない」という両親の許しは得られませんでした。さらに、ピアノの練習をしたくても、私の家にはもちろんピアノなどありません。そこで、高校の音楽室のピアノを弾いて練習しました。しかし、どうにも時間が制約される。なら自分で作ってしまえ、と思ったのです。ピアノの鍵盤は通常88鍵ですが、そんなことも知らぬ私はピアノの両端は「ド」だと決めつけ、109鍵のピアノを作りました。西洋音階は13番目に元の音が来るので、ならば12の倍数プラス1鍵だろうと。無知のなせるわざです。

 こうして始めたピアノ制作でしたが、ピアノの弦を叩くためのハンマーの仕組みを作ることが大変で、試行錯誤の毎日。しかし、すっかりハマリ込んでしまった毎日でした。そうした姿を見た高校の進学指導の先生に「君は工学部向きだぞ」と言われて、私は「なるほど、そうか」と半分納得しながら東北大学を受験したわけです。


言葉を曲に紡ぐ作曲法が原点

 中学生の頃、母の愛読誌に掲載された坪井繁治氏の「石」という詩が心に残り、これを歌にしてみたいと下手くそな音楽を付けたのが、私の作曲のスタートだったようです。

 東北大学での恩師福井文彦先生は、言葉に対して真に真摯な方でした。「言葉の流れとその心を深く掘り下げなさい。そこで感じ取ったことを曲として表現しなさい」と厳しく教えて下さいました。その上、昭和29年頃は、片平キャンパスに第二教養部があり、そこに私は2年間通ったのですが、生物の教官が俳人の永野為武先生、法学は桜の見事な「中善並木」で知られる中川善之助先生、文学は扇畑忠雄先生など錚々たる顔ぶれでした。ですから、この2年間に私は大変な刺激を受けました。

 また、忘れられないのは、愛宕神社で年1回開催された、若くして世を去った、気鋭の詩人・石川善助を偲ぶ「善助祭」に参加したことです。そこには、草野心平さんや真壁仁さん、更級源蔵さんなどの詩人が各地から集って来ていました。彼らがお国の力強い方言で詩について遣り合い、議論し合う姿が、言葉で激しくボクシングをしているのを見ているようで、すごく圧倒されました。ここで、方言の血を肉を体感し、勉強させて頂いたのです。その頃の仙台は、南町通り辺りの飲み屋の親爺さんが、ぶっきらぼうですが学生に鷹揚で温かく、とても人情味あふれる思いに浸りながら酒を飲んだものでした。


グローバル化だからこそ、ローカルな音楽の個性を

 私自身、東京で音楽を学び、活動していたらという気持ちはあります。刺激のレベルが違いますから。しかし、東京で活動する方々は、生まれ育った日本を考えるよりも、世界に名を馳せたいとの気持の方が強いように感じます。

 しかし、この仙台で音楽活動をしている人たちは、この土地に根ざし、この土地を大切に思いながら音楽をしています。それは泥臭いかもしれませんが、その泥臭さこそが私たちの豊かさの証しです。誰とでもざっくばらんにおしゃべりをし、酒を飲み、笑い合い、そのようにして生きていく人と触れたとき、私は「うーむ、この人、やるな」と感じ、嬉しくなります。

 考えてみますと、東北大学は、他の大学と比べて徒党を組むような団結の意識は薄いようですね。私は、これが逆に本学の強みであると感じます。心のバリアがなく、どこにでも入っていける。どこでも自在に存在できる……これは大変素晴らしいことです。

 現在は、以前作った「鳴砂」と言うオペラを、来年仙台で再演するために、書き直しをしています。曲を進化させる……ダーウィンの進化論みたいだな、などと感じています。私もまた、「進む」なのでしょうか。


102周年ホームカミングデー記念コンサートと岡﨑先生

 ホームカミングデー記念コンサートの企画依頼を広報課からいただいた時、真っ先に頭に浮かんだことは、この企画には音楽アドバイザーが必要であること、そしてこのアドバイザーには岡﨑光治先生をおいて外に考えられないということでした。在仙諸大学の合唱団、交響楽団への指揮や作品提供、あるいは指揮法講習会などを通し、これまで先生のお世話になってきた学生は数え切れません。半世紀に拡がる年代が一つとなって、この仙台で今、何を表現できるかを考えるとき、岡﨑先生以上の適任者は思いつかれませんでした。

 先生には企画、編曲そして指揮を一手にお引き受けいただきました。第二ステージは「学生歌ステージ」でしたが、先生のすばらしい編曲によって、これまであまり知られずにいた学生歌を半世紀ぶりに甦らせることができました。先生編曲の「青葉萌ゆるこの陸奥」をお聞きになりましたでしょうか。百周年記念コンサートから数えて四度目の演奏となりますが、何度演奏しても涙が出てくるのを禁じえません。指揮者としては、本番直前まで合唱団メンバーが全員揃わない(170名ですから無理もありません)という状況の中、音楽をまとめるのに大変ご苦労いただきました。満州育ちの先生のスケール(ダイナミックレンジ)は非常に大きく、先生のお酒の飲みっぷりと同じ豪快さと、針の穴を通すような細やかさを同時に要求される私たちは、戸惑うこと暫しでした。しかしそれが心地よい戸惑いであったことは言うまでもありません。

 先生からは、今後、複数年に亘る展望ある企画が必要であると指摘をいただきました。先生のご指導を受けながら、世界を視野に入れた企画を今後、打ち出していければと願っております。
 

                     102周年ホームカミングデー記念コンサート
                     実行委員会委員長 末光眞希




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