東北大学は、その卓越した技術と人材で、日本の産業の発展に大きく貢献しています。たとえば、自動車産業です。
石原俊(以下、石原)は、日産自動車(以下、日産)の設立時期に、東北帝国大学法科から入社。後に社長、会長を歴任、日本自動車工業会の会長も務めます。
以前、当連載記事で紹介した工学部卒の梅原半二は、豊田自動車(以下、トヨタ)の技術・製造部門の総責任者です。
大学内には、内燃機関の権威、抜山四郎教授、歯車の神様と言われた成瀬政男教授など多士済々。日本の誇る世界産業である自動車製造業の興隆と発展に、いかに東北大学の功績が大きいか。推測いただけるのではないでしょうか。
石原が就職した“日産”とは、鮎川義介が一代で創り上げたコンツェルンの持ち株会社「日本産業」の略称から名付けられました。鮎川は、東京帝国大学出身の技術者ながら米国の鋳物工場に一職工としてもぐりこみ、可鍛鋳鉄の製造技術を工場の現場で体得。帰国後の1910年(明治43)に「戸畑鋳物(現、日立金属)」を設立。新興財閥の始まりです。
一方、同時期の1911年(明治44)、自動車の国産化を目指す「快進社自動車工場」が誕生します。
設立者は、橋本増次郎。その将来性と心意気に、田健治郎(D)、青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)の3人が快進社に出資。その頭文字をとって名付けられたダット(脱兎)自動車が1914年(大正3)に完成します。1918年(大正7)には、ダット41型の乗用車を発売。しかし、販売不振から、1932年(昭和7)には、自動車部品を製造していた戸畑鋳物の傘下に入り、翌年、小型自動車生産1号車を完成します。DATの息子(SON)よ、太陽(SUN)のごとくあれ、と「ダットサン(DAT SUN)」と命名。日産を代表するブランドの誕生でした。
ここから、鮎川は、本格的な自動車生産に乗り出します。そこで、社名を変更。日本産業の全額出資の日産自動車株式会社が1933年(昭和8)に設立されました。その誕生まもない1937年(昭和12)に、石原は入社。経理部に配属されます。
軍需優先の時代です。戦時統制における軍需品の調達価格を決める原価計算が求められました。経理部の原価計算の担当者石原は、軍需用の自動車の原価計算準則を、陸軍、海軍、商工の三省と日産とトヨタで協議し、つくることになります。が、法科出身です。大学で会計学など習わず、貸借対照表の知識すらありません。石原は専門書を買ってきては一から独学。会社の実務を通じて理論を検証。準則づくりに没頭する日々が続きました。
石原が作成に参加した準則は、官報で告知。他の大量生産品の原価計算の標準になりました。
《 なにか一つをマスターすることが大切だ。(中略)その職種では社内はもちろん、業界全体でも「これならあの人」と評価されるくらい一つの職種を極めるべきだ。 》
(「私の履歴書 経済31」石原俊著・日本経済新聞社刊・平成16年)
闘将石原は、意外にも、ち密な経理の専門家として若き社員生活のスタートを切ったのです。
石原は、鹿児島県出身の石原市二、重代夫婦の長男として東京で生まれました。算術の成績が良い、野球やスポーツの大好きな少年でした。ところが、入学した旧制の府立四中(現、戸山高校)は受験勉強一本やり。進学競争には邪魔と運動部がありません。がっかりした石原ですが、旧制浦和高校に合格。ようやく、そこで出会ったスポーツ、ラグビーに夢中になります。
《 学生時代にラグビーをやったことは、私の人格形成に大きく影響したと思う。「フェアプレー」と「フォア・ザ・チーム」が私の行動を規定している。 》
(「私の履歴書 経済31」)
一方、石原は、学内新聞『浦高時報』の編集委員としても活躍。学生ストライキを煽った、と停学処分を受けます。そのためか、二年遅れて東北帝国大学法文学部法科に入学。経済科の志望がなぜか法科での合格です。左翼思想の持主と思われた石原は、経済科ではなく法科なら入学を認める、との大学側の判断でした。
大学入学後は、さっそくラグビー部に入ります。試合があると幾人かの若き女性たちが見物に来ていました。
その中のひとり、仙台の老舗菓子店の娘静子と石原は後に結婚することになります。
『石原は、毎日のようにあの娘の店で菓子を買っていた』との噂が立つほどでした。
《 そんなに通い詰めてはいないし、私ばかりが買ったわけでもない。 》
(「私の履歴書 経済31」)
石原は、このように抗弁。武骨で男っぽい石原の、ほほえましいエピソードです。
ところで、敗戦後、資材も極度に不足する窮乏時代に、日産はあくまで車を作ろうと再出発します。しかし、手持ちの部品で生産を再開するような日々。資金繰りに苦しみ、日産は追い込まれます。
その時、日本興業銀行(現、みずほ銀行)から経営再建のために送り込まれたのが川又克二でした。資金事情に詳しく仕事のできる人と、すぐに、専務に昇格。会社の実権を握ります。一方、労働組合は、さらに先鋭化。過激になるばかりです。法外な賃上げ要求などの無期限ストに突入します。いわゆる「日産争議」です。
川又は、ロックアウトで対抗。新しい労働組合も誕生し、さまざまな葛藤の末、争議は終結します。
その労働争議の時期に、石原は経理部長であり、1954年(昭和29)には、四十二歳の若さで取締役に選任されます。早くから「日産の社長候補」とも噂されました。しかし、石原が川又から社長に指名されたのはその23年後の1977年(昭和52)。すでに65歳となっていました。
石原は、世評に反し、山あり谷ありの会社人生を過ごします。たとえば、1957年(昭和32)には、経理部長から十数人の弱小の部署である輸出担当に回されもします。
《 「左遷」という言葉が頭をかすめた。…(省略)…しかし、私は輸出に自分の将来をかけてみようと思った。 》
(「私の履歴書 経済31」)
とは言え、当初の実情は惨憺たるもの。1958年(昭和33)の乗用車の米国での販売台数はわずか83台です。そこで、ロサンゼルスに米国日産自動車を設立。車の技術的な問題点を改良し、広大な米国でも通用する品質を確保しました。しかし、赤字がつづきます。首を覚悟の増資の要請もします。ようやく努力が実を結び、1962年(昭和37)には、日本の業界1位の輸出台数を達成。「輸出の日産」の始まりでした。
▲特製の自前の船を繰り、カジキマグロ釣りにも熱中。 チャレンジする石原らしく、趣味も多く、多彩でした。 ※写真提供、東北大学法学部同窓会。『会報 第31号』掲載。 |
その後、日産の輸出は、日本の自動車業界における断然トップの年が続きます。1964年(昭和39)には、米国の輸入車ベストテンにも食い込みました。輸出担当は、石原たちの努力で、いつしか花形部門になったのです。
その石原は、1965年(昭和40)、国内営業担当として日本に戻されます。国内で日産はトヨタに販売台数で大きく水を開けられていました。
覚悟のほどを記者に聞かれた石原の答えです。
《 いつまでも二位メーカーではない。一位になる。 》
(「私の履歴書 経済31」)
新発売の大衆車サニーの大ヒットを契機に、販売会社の系列を整理し展開。米国で体験した、アフターサービスや中古車扱いの大切さを、全国の販売会社に説いても回ります。国内での販売にも勢いが生まれてきました。この実績が、石原への社長指名となったのでしよう。
いよいよ社長としての石原の社内改革が始まります。
新社長としての抱負を全国の従業員に直接に伝えるため、各地の工場も回ります。労働組合が工場を事実上取り仕切っていた日産です。従来では考えられない試みでした。
海外生産では、新経営方針の「グローバル10」を発表。世界の自動車生産における日産のシェアを10%に引き上げる、という積極果敢なものです。
海外での貿易摩擦への対応として、米国や欧州での現地生産や資本参加もすすめました。さらには、欧州進出のため英国への現地工場の建設を計画。サッチャー英国首相との工場建設協定に調印もします。
しかし、結果は、順調にいったわけではありません。日産は、経営陣と労働組合との対立が激化もしていました。
《 エネルギーの六、七割を組合の問題に費やした。 》
(「私の履歴書 経済31」)
石原の社長退任時の述懐です。悲願のトヨタ追撃は叶いませんでした。
石原は、日本を代表する経済団体の一つ「経済同友会」の代表幹事を引き受けました。と同時に、1985年(昭和60)には、日産の社長を退き、会長に就任します。
経済同友会は、かつては“財界参謀本部”と評された輝かしい存在です。ところが、その後、活動が沈滞していました。そこで、石原は、「開かれた政策集団」のスローガンを掲げ、スポーツマンらしく、明るく、のびのびと前向きに活動。デザイナーの森英恵をはじめ五人の女性経営者を加えるなど、三年間で会員を五割も増やします。
日本の経済と政治の状況を憂い、歯に衣を着せず、率直に発言もしました。
《 輸出を積極的にやらなくなったら、日本経済の発展は止まる。 》
(「私の履歴書 経済31」)
当時の日本の政治は、一党による長期政権が続いたためか、対応がどこか遅く、“金権政治”などと批判もされていました。米国などとの貿易摩擦問題にも、受け身的で後手に回りがち。世界の経済の激動に身を置く石原には、この状況がどうにも歯がゆく、危機感を感じていたのでしょう。
《 企業は一流、政治は三流。 》
(「私の履歴書 経済31」)
清新な政治改革を求める石原は、1989年(平成1)、「リクルート事件」における当時の首相の退陣を要求。この豪胆な言動は、マスコミの注目を集めました。財界のスター的な存在となり、政界にも大きな影響力を持ちます。
筆者は、法学部の同窓会総会で、石原同窓会副会長(会長は、法学部長)を、一後輩の立場から拝見したことがあります。普通、大企業の社長たちは、同窓会活動には慎重です。石原は、そんな自己保身や懸念などはどこ吹く風。見るからに豪放磊落、しかも、にこやかでした。
財界首脳が東北大学の卒業生で、同窓会の活動にも関心を寄せ、熱心にかかわっている…。後輩たちにはどんなに心強いことであったことか。
母校東北大学が、世界の著名大学に伍する狙いの「指定国立大学法人」に最初に指定されたことを知れば、石原は、そのいかつい顔をほころばせ、大いに喜んだことでしょう。
スポーツが大好きな石原です。こんな縁から、石原は、2002年(平成14)のサッカーワールドカップ日本招致委員会の会長を務めました。日韓の共同開催となり、サッカーブームを起こし大成功。
その熱狂を見届けた翌年の2003年(平成15)、石原は、起伏と茨の多き人生の道を、自動車のように、前へ、前へ、と突進、疾駆するラガーマンらしい生涯を閉じたのでした。
1912年(明治45)、東京生まれ。旧制浦和高校から東北帝国大学法文学部法科へ。1937年(昭和12)、鮎川義介が創設した日産コンッエルンの日産自動車に入社、経理部に配属。早くから「日産のプリンス」と将来を嘱望された。1977年(昭和52)に社長就任。日本自動車工業会会長として対米輸出摩擦の解消にも取り組む。経済界の政策集団「経済同友会」の代表幹事。2002年(平成14)のサッカーワールドカップ招致委員会会長として招致に尽力。勲一等旭日大綬章を綬章。2003(平成15)年逝去。享年91歳。
主な参考資料
▽『私の履歴書 経済人31 石原 俊』 日本経済新聞社編 日本経済新聞社 平成16年 ▽『私の履歴書 経済人7 川又克二』 日本経済新聞社編 日本経済新聞社 昭和55年▽『21世紀への道 日産自動車50年史』 編纂 日産自動車株式会社 調査部 発行 日産自動車株式会社 昭和58年 ▽『労働貴族』 高杉 良著 講談社文庫 講談社 第11刷 1995年 ▽『 日産自動車の盛衰―自動車労連会長の証言 』 塩路一郎著 緑風出版 2012年 ▽『日産その栄光と屈辱 消された歴史 消せない過去』 佐藤正明著 文藝春秋 2012年 ▽『日産自動車社史 1964-1973』 編集 日産自動車株式会社社史編纂委員会 発行 日産自動車株式会社 昭和50年 ▽『日産自動車社史 1974-1983』 編集 日産自動車株式会社創立50周年記念事業実行委員会社史編纂部会(事務局 調査部) 発行 日産自動車株式会社 昭和60年 ▽『会報 第31号』 発行 東北大学法学部同窓会 平成16年