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東北大学ひと語録

                    

《 技術なき工学は空虚である。工学なき技術は盲目である。 》

梅原半二


「実学尊重の東北大学」を体現。日本のリーディング産業、
         自動車産業の夜明けから発展までの生産技術を開拓。



梅原半二と東北大学の関係者らが、「世界のトヨタ」の創業者豊田喜一郎の高い志を技術面で支え、見事に成就。

「実学尊重」とは、東北大学の建学の理念の一つです。ところが、「研究第一」、「門戸開放」の理念と比べ、もう一つ実感が湧かない。こう、感じる方があるかも知れません。

だとすれば、東北大学の素晴らしい実績を、あまりにも知らなすぎます。ほんの一例ですが、あの「世界のトヨタ」の誕生にも、東北大学は、決定的な役割を果たしました。この事実だけでも、「実学の東北大学」の日本への大いなる貢献を納得いただけることでしょう。そのトヨタの発展に大活躍したのが、梅原半二らの東北大学関係者たちでした。


ご承知のように、自動車産業は日本の中心産業。世界をリードしています。中でも先頭を走る「トヨタ」。そのトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎の、国産自動車の産業化への信念と挑戦に共鳴。当時ではまさに夢物語であったことを、現実のものとして共に築き上げたのが、東北大学の教授たちとトヨタ自動車の社員となった梅原半二ら東北大学の卒業生たちです。


後年、梅原半二は、創業者豊田喜一郎を次のように偲んでいます。


《 英国のことわざに「召し使にとって、英雄も英雄ではない」というのがある。わが喜一郎氏は、私共、使用人から見ても、実に偉大な人であった。彼の夢がなかったら、今日のトヨタは存在しなかった。 》


▲製作の陣頭指揮をとった「コロナSE型」の
試作車と梅原半二(昭和32年)

豊田喜一郎は、「自動織機」を発明し日本の発明王と呼ばれた豊田佐吉の長男です。父の事業を手助けしながらも、次の代の日本の産業の育成を見すえるなら、自動車の国産化しかない、と確信します。そこで、懐かしい仙台の地の東北帝国大学に抜山四郎教授を訪ね、相談をします。二人は、豊田喜一郎が青年時代に名古屋からはるばる仙台に来ることになった旧制二高への入学で知り会った仲。進学先の東京帝国大学でも無二の親友でした。抜山四郎(以下、抜山教授と表記)は、内燃機関の研究の権威。工学部の有力な教授です。さらに、豊田喜一郎は、自動車の車体の素材となる特殊鋼の日本での製造の可能性を、本多光太郎博士に確認、指導を仰ぎました。本多光太郎は、金属材料研究所の所長。「鉄の神様」といわれた大学者です。同時に「歯車の世界的な権威」であった成瀬政男教授も顧問として迎え、自動車のギアの指導を受けます。

こうした豊田喜一郎の、東北帝国大学の誇る優れた研究者たちとの深い関係が、この後、梅原半二をトヨタ自動車に結び付けることになりました。


当時の帝国大学工学部機械科の卒業生たちは、時代の花形の繊維産業や財閥系の重工業の会社への就職を希望。海のものとも山のものとも分からない国産自動車の創業企業への就職などは全く人気がありません。

ところが、東北帝国大学からは、豊田喜一郎と抜山教授の関係もあり、トヨタ自動車の大卒社員第一号となる斎藤尚一が入社し大活躍。後にトヨタ自動車工業の第三代会長を歴任します。

梅原半二は、第二号の大卒社員です。自動車製造の中核をなす難題、内燃機関とラジエーターを、トヨタ自動車の社員の身分のままで抜山教授のもとで研究。戦前の日本での国産化に一応のめどをつけました。その後は、トヨタ自動車の本社に戻り、乗用車の量産モデル工場の建設を果たすなど、製造全体の担当責任者として苦難の道を歩むことになります。



挫折体験と豊田喜一郎への尊敬が梅原半二の力の源。国産乗用車の誕生への製造技術の開発と品質向上を実現。

梅原半二は、幼いときから利発な子として評判でした。県下一の名門中学の愛知一中に知多半島の田舎町から入学します。入学後も抜群の成績。特に数学に特異な才能を発揮、一時は数学者を夢見たほどです。旧制の八高には最終学年五年を待たずに四年終了で合格する秀才でした。ところが、八高から東京帝国大学工学部への進学に失敗。合格は間違い無しの普段の成績でしたが、試験時期の体調と精神の不調でのよもやの不合格。あわてて、補欠募集のあった東北帝国大学工学部機械科を受験。たいへんな高倍率の難関を突破します。こうして、名古屋から当時の汽車の乗車時間だけで25時間ほどもかかる、まるで外国のような遠い存在であったみちのく仙台へとやってきたのでした。


梅原半二は、大学に比較的近い肴町(現・大町)の魚問屋であった石川万兵衛宅に下宿します。石川家の四女で、宮城県立第一女子高等女学校に在学し才媛と評判であった千代といつしか恋仲に。ついには後の猛を妊娠、結婚しようとしました。ところが、まだ学業半ばと梅原家が大反対。さらに二人は、当時は死病と恐れられた結核を発病。千代は、進学した宮城女子高等専門学校を中退、病身ながら一命を賭して猛を出産。その一年半後に病没します。後年に文化勲章を受章する高名な哲学者となる猛は、赤子の時代に、梅原半二の長兄半兵衛、俊夫婦の子として引き取られ、育てられることになります。

当時を、梅原半二は、こう、述懐しています。


《 …恋愛結婚で、当時としては不名誉な行為でいろいろ苦労した。… 》


千代のあまりにもはかない生涯や我が子猛のこれからのことを考え、まさに断腸の思いであったのでしょう。心労も重なったためか、梅原半二は結核療養のために大学を二年ほど休学します。しかし、この時期に、後にトヨタ自動車入りする遠因をつくりました。遠藤トモとの再婚です。

病から回復した梅原半二は、講師として大学に戻りました。いくつかの論文を書き、抜山教授のもとで熱伝導の研究を行っていましたが、結局は大学を辞めてしまいます。なんと、妻トモの経営するバーやキャバレーのマスターとなったのです。これまでの一連の出来事があり、大学に居づらい感情や、人生に対しどこかやりきれない思いがあったのでしょう。


▲前列中央左/梅原半二、前列中央/棚沢泰教授、
前列中央右/抜山四郎教授

このときです。豊田喜一郎が抜山教授のもとを訪れ、有望な教え子の就職を依頼しました。すると、少し考えた後で、抜山教授は、次のように答えました。

「…今の学生にはありませんが、一人飛び抜けた梅原という秀才がいます。少し事情があって水商売をしているのですが、まだ学問をやめて三年しかなりません。会ってみたらどうですか…」

このような経緯から、梅原半二は、トヨタ自動車工業の前身である豊田自動織機製作所自動車部の嘱託技師として入社します。1936年(昭和11)のことでした。


従業員を大切にする豊田喜一郎でしたが、梅原半二への扱いはさらに破格でした。結核をわずらった身を案じるとともに学問をつづけさせるため、東北帝国大学の中にトヨタ自動車の研究所をつくります。そこで、工学部の優秀な教授たちのもと、梅原半二に熱力学、流体力学の研究にまい進させたのです。

まさに適所を得た梅原半二は、いろいろ好きだった趣味や遊びごとを断ち、喜一郎の恩義に報いるためにもと、国産乗用車の実現のため、研究と技術開発に精魂を傾けるのでした。



技術開発の中心に。さらに、デミング賞を受賞。「品質管理」の思想を産業界に広げ、“ものつくりニッポン”に貢献。

いまでは、自動車産業は、日本を代表する憧れの業種です。ところが、終戦後に占領国米国から乗用車生産の許しが出た段階では、産業界などの反応はまったくの逆でした。たとえば、こうです。乗用車を国産化する高度な工業発展は、日本の現状ではしょせん無理、夢物語だ。分不相応の大それた挑戦は無駄に終わり、大損するのがオチ。外国から輸入したほうが国益に適う、などなど…。このような主張が、日本人によって、国会の場においてさえ、大手を振って発言されていたほどです。

現代では、まるで嘘のような議論ですが、当時は、日本で国産自動車づくりが産業として成り立つとはとても思えません。それほど、欧米の先進工業力とは隔絶した差がありました。

しかし、自動車産業は、部品を含めすそ野の広い工業分野です。国の工業技術の水準を表す製品でもあります。トヨタ自動車は、乗用車の国産化は、次代の日本の産業をリードする存在になり、日本を発展させる、と主張。どうにか、乗用車づくりが本格的に認められます。


この大事なとき、豊田喜一郎が急逝します。1952年(昭和27)、五十七歳の働き盛りでした。梅原半二は、豊田喜一郎の恩に報いるため、日本のこれからの発展のためと、国産乗用車の量産のための産業技術の確立の先頭に立ちます。トヨタ自動車本社の技術部長、さらには乗用車開発の技術担当重役として、「初代クラウン」と「初代コロナ」の開発の陣頭指揮をとります。自らも試作車を当時の日本の様々な状況の悪路で運転。思わぬ事故にも遭いながらも、品質向上にまい進。世評を跳ね返し、見事に国産車開発に成功します。こうして、トヨタ自動車発展の基礎が固まりました。


しかし、乗用車の量産が始まり直面したのが、生産車の品質保証、つまり歩留まり率です。梅原半二を含め、トヨタ自動車の幹部は、大量生産を軌道に乗せるには、一つ一つの製造工程や部品の品質向上が鍵を握ることを痛感します。自動車は、約3万点の部品から成り立つといわれます。その部品のわずか一つにでも品質に欠陥があれば、その対応のため、乗用車の生産ライン全体が止まってしまいました。

こうした苦い体験から、梅原半二たちの「品質管理」のための徹底した社内活動が始まります。おりしも、米国からデミング博士の「品質管理」の手法が日本にもたらされます。早速、その考えを取り入れることになり、「品質管理委員会」を立ち上げました。委員長は豊田英二(後のトヨタ自動車工業第五代会長)、副委員長を梅原半二と豊田章一郎(現トヨタ自動車名誉会長)がつとめました。その取り組みが実り、1965年(昭和40)に「デミング賞」を受賞します。


委員会の活動では、梅原半二は、「みんなでやる品質管理」の思想を提言。従業員一人ひとりのモチベーションの高揚に大きな成果を収めます。同時に、梅原半二は、「自動車技術会」の中心メンバーとして、工業界全体にこの考えを広めました。いまでは、トヨタ自動車といえば、「ジャスト・イン・タイム」や「品質は工程で造り込む(自己工程完結)」の言葉に代表されるように、在庫適正管理と品質管理の世界のモデル企業となっています。


梅原半二の貢献は、技術面だけにはとどまりません。常に、人類の未来予測に立ち、自動車産業や工業の将来のありかたを洞察し、提言を考え、折にふれ社会に積極的に訴えています。

まず、トヨタ自動車創成期の若い社員には、次のように語りかけるのが常でした。


《 自動車産業はどの国でもリーディング産業であるから日本もいずれそうなる、するとトヨタは日本一の会社になるのだよ 》


どうでしょうか。いまでは、日本一どころか、世界有数のトップ企業と認められています。


豊田中央研究所代表取締役所長となってからは、さらに、文明全体からの自動車の将来像や工学や技術のありかたまで、深い思索と提言を社会に主張しつづけました。


《 未来予測はともすると悲観論が多い。……(中略)…… どうすれば良いか、という視点のない未来予測は邪道だと思う。 》


まさに、「実学の東北大学」出身者らしい、地に足の着いた、愚直なほどの信念です。


《 技術なき工学は空虚である。工学なき技術は盲目である。 》


21世紀のいまでも、まったく古びない真理であり、考え方ではないでしょうか。


▲未来への「悠久の生命」を提唱するエンジニア梅原半二、
「ものつくり大学」の学長となった哲学者梅原猛

最後に、冒頭のテーマに沿って付け加えることがあります。

豊田喜一郎の長男豊田章一郎は、父の勧めで東北大学の大学院に進み、機械工学の棚沢泰教授の研究室で高速液流微粒化を研究。後にこの研究をもとに名古屋大学から工学博士号が授与されます。さらに、「東北大学創立百周年」に創設された「100周年記念文化貢献賞(産業部門)」を受賞。東北大学が大いに誇りにする同窓生でもあります。


東北大学は、トヨタ自動車はもちろん、様々な企業との「縁(えにし)」を大切にし、協力や連携を深めてきました。近年のトヨタグループの積極的な東北進出には、これまでの東北大学との長年の縁があったからでもありましょう。

「実学尊重の東北大学」の歴史と伝統が生み出した梅原半二のような人材。現在も次々に巣立っています。彼らが、どのような世界企業の実現に貢献するのか…。

“今日の豊田喜一郎”には、東北大学を訪ね、“今日の梅原半二”に出会ってほしいものです。



1903年(明治36)、愛知県内海町(現・南知多市)生まれ。生家は兄が町長を務める有力家系。旧制の愛知一中、八高を経て、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。優秀な成績であった。下宿先の娘で才媛の石川千代と恋愛。生家から結婚への大反対を受け、心労からか千代ともども結核を発病。千代は子息猛を生んだ一年半後に病没。梅原半二も結核療養で休学。大学に戻り講師となったが結核を再発。大学を去り、再婚した妻トモの経営するバーやキャバレーのマスターをしていた。その時、大学の恩師抜山四郎から豊田喜一郎を紹介され、国産自動車の生産を目指していたトヨタ自動車(以下、原則として現社名で表記)に入社。ラジエーターを研究設計、その後は製造機械すべてを設計。量産モデル工場建設の基礎を築く。その後、日本初の本格的な小型乗用車の技術開発の陣頭指揮をとり、初代クラウンやコロナが誕生。1960年(昭和40)、品質管理への卓越した実績をたたえるデミング賞を受賞。世界に冠たる「品質管理のトヨタ」の先鞭をつける。常務取締役や豊田中央研究所代表取締役所長を歴任。自動車技術会を長年育成し日本の自動車工業に寄与、交通文化賞を受賞。紫綬褒章受章。哲学者の長男猛は文化勲章を受章。1989年(平成元年)逝去。享年87歳。



※文中敬称略、ルビ・カッコ内補注筆者。お子様などご家族にもお見せいただければ幸いです。当シリーズへの、ご意見、ご要望をお待ちいたします。

主な参考資料
▽『平凡の中の非凡』 梅原半二著 梅原 猛編 佼成出版社 平成2年 ▽『巻頭対談 自動車工業の未来を担う― 梅原半二氏に聞く』 梅原半二著 「化学工業 第36巻 第8号」  1972年 ▽『特別講演 来た道行く道 ―自動車工業とともに― 』 梅原半二著 「鉄と鋼 第59年(1937) 第8号」 1937年 ▽『 特別講演 人間工学の周辺散歩 』 梅原半二著 「人間工学 Vol.11No.4(‘75)」 1975年 ▽『2極の間に立って』 梅原半二著 「繊維工学 Vol.21 No.1(1968)」 1968年 ▽『美の奇神たち 梅原猛対話集』 梅原 猛著 淡交社 平成25年 ▽『梅原猛著作集 15 たどり来し道』 梅原 猛著 小学館 2003年  ▽『思うままに 老耄と哲学』 梅原 猛著 文藝春秋 2015年 ▽『豊田喜一郎伝』 和田一夫・由井常彦著 企画編集 トヨタ自動車歴史文化部 編集協力 財団法人日本経営史研究所 発行 トヨタ自動車 ▽『トヨタ自動車 75年史 1937-2012 もっといいクルマをつくろうよ』 トヨタ自動車 2013年 ▽『未来を信じ一歩ずつ ―私の履歴書』 豊田章一郎著 日本経済出版社 2015年 ▽『財団法人東北大学研究教育振興財団記念誌 創立百周年 志の力 』 財団法人東北大学研究教育振興財団広報委員会編集 財団法人東北大学研究教育振興財団刊 2010年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年





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