東北帝国大学に招かれた植物生理学の泰斗。仙台で「光合成・明反応」を発見、日本観察の書も著名。
知る人ぞ知る、“東北大学成功伝説”があります。「東北大学は、在籍した外国人研究者に、幸運と名誉をもたらす!」というもの。
たとえば、モーリッシュは、東北帝国大学から帰国後に、ウイーン大学総長に満場一致で推挙されました。来日前の、労多かった同大学の理学部長時代とはまったくの様変わり。名誉ある科学アカデミーの副総裁にも選ばれます。
そのほかの例も挙げましょう。法文学部の哲学教授カール・レーヴィットは、東北帝国大学での講義内容をまとめた『ヘーゲルからニーチェへ』が代表著作。この書で、哲学史に残る存在となります。同じ、哲学講師オイゲン・ヘリゲルは、仙台時代の禅と弓術の体験をまとめた『日本の弓術』の書で有名。現在もロングセラーで西欧人の禅理解の第一級の書と定評です。
東北大学金属材料研究所に在籍、研究したハンス・ハインリッヒ・ローラーは、当時に夢中で研究した走査型トンネル電子顕微鏡の開発で、後にノーベル物理学賞を受賞しました。
東北大学の多元物質科学研究所の蔡安邦教授の研究室でともに研究したダニエル・シェヒトマンは、「準結晶」という新物質の存在を予測。蔡教授が実際に夢の準結晶合金を創り出したことで、準結晶という新たな概念が確立。ノーベル化学賞を受賞します。
“東北大学成功伝説”とは、まさに真実でした。東北大学は、戦前もいまも国際研究大学です。
さて、すでに65歳となっていたモーリッシュが、東北帝国大学に招聘されたのは、東北帝国大学理学部に「生物学教室」を開設するためです。動物学講座の主任教授には、ペンシルバニア大学ウイスター研究所の世界的な生物学者であった畑井新喜司の就任が決定。植物学教室にも、どうしても世界的な碩学を、と白羽の矢が立ったのがモーリッシュでした。時の総長小川正孝からの招聘状を晩餐の席で受け取ったモーリッシュは、極東の、そのまた、みちのくの新生東北大学帝国大学への招聘に、
《 …これは、行かねばなるまい… 》
とその場で即決。モーリッシュや東北大学にとって、まさに幸福な決定でした。
《 故郷しか見たことのない自然学者は自然の一部を知ったに過ぎない。 》
モーリッシュが常日頃から口にしていた研究信条です。極東の日出ずる国日本という新たな“自然”に、猛烈な研究意欲がわいてきたにちがいありません。
しかも、当時のオーストリアやウイーン大学は、第一次大戦での敗戦で、猛烈なインフレに悩まされていました。研究はもちろん、日々の食事の心配さえしなければならないほど疲弊した国情でした。領土の割譲を余儀なくされ、欧州一の名門ハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国が小国に転落。誇り高いオーストリア人にしてドイツ人のモーリッシュです。己が必要とされている日本という活躍の場に、新たな使命を感じたのでしょう。年俸は一万円。一千円で家一軒が建つといわれた時代。当時の小川総長よりも二千円も多い厚遇です。しかも、当時の外国為替事情は、たいへんな円高。主任教授待遇の恵まれた研究態勢はもちろん、家族の生活のためにも、モーリッシュは、勇躍単身で、日本、仙台に向かったのでした。
驚くことに、「メンデルの法則」で有名なメンデルは、モーリッシュの生家の近くの修道院の院長でした。しかも、地元の有名な園芸家であったモーリッシュの家族とは懇意の間柄。子ども時代に、メンデルから親しく植物の話を聞かされた事実を、モーリッシュは誇らしく語るのが常でした。代々続く園芸家の家系、メンデルとの関係。モーリッシュが、ウイーン大学で植物学を専攻、植物学者を志向したのは当然の成り行きであったことでしょう。
ウイーン大学では、植物生理学の大家ウイズナー教授に師事。後には、その後を継ぎ、同大学の正教授として活躍します。仙台時代のモーリッシュは、まるで修行僧のよう、と研究に没頭したエピソードが後々まで語り草になっています。モーリッシュは190センチを越す長身。西欧人の中でも飛びぬけたスマートさ。青年時代にはダンスと音楽が大好き。女性に人気のある存在でした。ところが、敗戦後の混乱した社会を体験し大きく変ります。
《 私は四〇歳以後、自分が生きている時間のすべてを植物学のためにつかうことを決心した 》
このように語った生活そのままを、仙台でも貫きとおします。モーリッシュのため用意された新しい一戸建ての家を断り、生物学教室のレンガ造りの実験室の傍らに寝起きします。実験と研究、講義の準備と日常の生活が一箇所でできる大学が我が家。東洋の日本で、必ず新しい発見を!自分の容貌を日本の鬼に例えた冗談をよく口にしたモーリッシュ。まさに“研究の鬼”となって日々暮らした実験室は、現在の放送大学宮城学習センターの一階の一室。当時の面影をいまもしのぶことができます。
実験に疲れたモーリッシュは、研究室兼住まいから、目の前の片平小学校の校庭を眺めては、児童の様子に心を慰めました。雲をつく大男の外国人です。モーリッシュを最初は怖がっていた子どもたちも、道で出会うと挨拶するようになりました。仙台市民では知らない人がいないモーリッシュ。行く先々ではみんなが親切。楽しい生活であったと述懐しています。
モーリッシュは、「日本、しかも仙台では、不便ではないですか」と尋ねられると、不思議そうに次のように答えるのが常でした。
《 広瀬川のほとりをめぐり、青葉山に登れば、一生かかっても研究つくせないほどの資料が山積している。 》
事実、モーリッシュは、昼食後の安静の後の散歩に、広瀬川を越えては、青葉山や向山の植物の観察と採集に出掛けるのを日課としました。広瀬川の橋の上から大きな身体を乗り出し、水中の藻を注意深く観察している姿を市民がよく見かけています。
仙台に地下鉄の東西線が通り、車両が広瀬川を渡り、かつての二の丸跡の「国際センター」、「川内」、そして天主台のあった「青葉山」の駅へ、あっという間もなく到着する現在。モーリッシュが存命なら、研究する自然がさらに広がったと大いに喜んだのではないでしょうか。
モーリッシュは、若くして大きな研究業績を挙げました。それが、「モーリッシュ反応」の発見です。正常な尿の中に糖分が含まれているかを色の変化で明らかにする方法です。世界中の医療の現場で大きな貢献をした研究成果でした。現在でも活躍している方法です。
このような業績で植物学界の期待を集めたモーリッシュは、ウイーン学士院の奨学金で世界一周の旅に出ます。1897年(明治30)の半年の研究旅行でした。ジャワ島のジャングル、中国や日本、北アメリカなどの植物を実際に観察、採集しての調査です。ジャワ島では、発光細菌を実際に見ることができ、ますます発光植物への関心が高まります。当時の猥雑とした中国の様子を見た後に訪れた日本。清々しい良い印象を受けたようで、この実際の訪問体験もあって、東北帝国大学への赴任を決めたともいわれています。
東北帝国大学での講義は、ドイツ語で始めました。しかし、学生たちの要望もあり、しかたなく英語で教えることになります。ところが、講義の途中でドイツ語になってしまうこともしばしば。二年目にはすっかりドイツ語での講義になりました。
講義とともに大事にしたのが実験です。しかも、簡潔に、事象の本質をストレートに理解させる実験の工夫に心血を注ぎました。
《 実験は簡なるをもって上乗となす。これが自分のモットーだ。 》
モーリッシュの口癖です。その一例として、学生たちに質問するのでした。
《 アリの這う足音を聞くにはどうするかね? (省略) わたしは一枚の古新聞の上にアリを這わせ、それを自分の耳の上に乗せる。それでよい 》
こうした実験の工夫で仙台時代に明らかにしたのが、「光合成の明反応」です。具体的には、発光バクテリアを使い、死んだ植物の葉が光を受けるとO2(酸素)を出すことを発光現象で実証しました。これは、後年に英国のヒルによって内容が深められ「モーリッシュ―ヒル反応」と呼ばれ、光合成の明反応の解明に大きな貢献をします。
まさに、発光植物や発光物質への関心が、仙台の地で、科学的な業績として実ったのです。
モーリッシュで忘れられないのは、アインシュタインの仙台訪問でのエピソードでしょう。日本訪問の途中でノーベル賞の受賞が決まり、日本は熱狂的にアインシュタインを迎えました。仙台でも同様です。講演の後の東北帝国大学による歓迎会で、モーリッシュは、世界的な学者同士としてアインシュタインの隣の席となります。ある参加者の提案で、二人の外国からの碩学に歓迎会場の壁に記念のサインをしてもらおうということになりました。
二人の偉大な科学者のサインは評判になりました。絵葉書にもなったほどです。その貴重な壁は、後に火事で焼けてしまいました。いまでは、東北大学史料館のモーリッシュ資料の写真で見ることができます。同館は、モーリッシュの使った机や椅子を展示。東北大学には、モーリッシュの「肖像画」や写真、ゆかりの品がいまもたくさん残されています。
八十一歳で亡くなる数日前まで、植物学者としての研究生活を続けたモーリッシュ。
東北大学には、モーリッシュのこうした“研究の鬼”のような学者魂がいまも脈打ち、残っているでしょうか。大学の国際的な競争の時代、「東北大学成功伝説」の現在が問われています。
Hans・Molisch 1856年(明治29)、オーストリア生まれ。生家は地元で著名な園芸農家。 近くの修道院の院長が、植物の遺伝の研究のメンデル。モーリッシュ家とは親しく、メンデルの影響もあり植物学の道に進む。ウイーン大学で植物生理学を学び博士号取得。助手時代の業績が、糖の過敏反応の発見、いわゆる「モーリッシュ反応」。後にウイーン大学の教授、理学部長を歴任。しかし、第一次大戦の敗戦でオーストリアは混乱と窮乏を極め、天文学的なイン フレに悩まされる。そのとき、東北帝国大学が生物学教室発足に伴う植物学の主任教授として招聘。ただちに受託、65歳ながら単身で1922年(大正11)に来仙。新築された家に住まず、研究室に起居。研究と実験、講義の準備に没頭。東北帝国大学時代に、「光合成」の明反応(光で酸素発生)を発見。数々の業績を挙げ、2年半後の1925年(大正14)に帰国。仙台での研究を 『Pflanzenphysiologie in Japan(日本の植物生理学)』にまとめ、日本植物生理学の研究に貢献。一方、サハリン・北海道から九州佐多岬までの精力的な旅の見聞が好著『Im Landeder aufgehende Sonne(「日出づる国にて」、邦訳題「植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記」)』に結実、日本を科学者の視点で紹介。帰国後にウイーン大学総長に就任。総長を 退いた後もインドで研究。死の直前まで精力的に研究を続け、1937年(昭和12)没。享年81歳。
主な参考資料
▽『植物学者モーリッシュの大正ニッポン観察記』 ハンス・モーリッシュ著 瀬野文教訳 草思社 2003年 ▽『回想のモーリッシュ ― ある自然科学者の人間像 ―』 渋谷 章著 内田老鶴圃新社 1979年 ▽『ハンス・モーリッシュを訪ねて』 片岡博尚著 東北大学史料館だより No.11 東北大学史料館 2009年 ▽『ハンス・モーリッシュの樹』 東北大学広報 No.153 名所記念碑シリーズ XIX 大脇賴子著 東北大学 1992年 ▽『生物学講話』 河村貞之助著 畝傍書房 昭和16年 ▽『栽培技術と植物の生理』 土屋 格著 恒星社厚生閣 昭和19年 ▽『モーリッシュ先生の思い出』 相馬悌介著 東北大学生物学教室五十年史(P175-177)昭和55年 ▽『モーリッシュ教授の二つの実験について』 柴岡孝雄著 東北大学生物学教室五十年史(P177-180)昭和55年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年