仙台医学専門学校で、人の魂を救う文学の道に進むと決意。仙台は、中国の文豪「魯迅」への転回の地。作品『藤野先生』に、教育の本質を見る。
外国の国家元首が、公式に東北大学を訪れた。
開学以来の初めての出来事ではないでしょうか。
1998年(平成10)11月29日の、中国の江沢民国家主席の仙台滞在と東北大学来学です。外国賓客の大学訪問は、首都である東京の大学が選ばれるのが通例です。にもかかわらず、当時の東北大学総長阿部博之や関係機関の尽力により実現した快挙でした。これも、魯迅留学を契機とする東北大学や仙台と中国の長い友好関係の賜物といわれます。
おかげで、江主席のはじけるような笑顔が印象的な東北大学への来訪となりました。いまに残るかつての仙台医学専門学校の階段教室では、魯迅がよく座っていたといわれる席に座り、感慨深く見つめる江主席。前から三列目のこの席は、東北大学を訪れる中国からの賓客や中国人留学生の憧れの場所となっています。
東北大学は、その「門戸開放」の精神と伝統の力でしょうか、外国人留学生として中国の誇る優れた学者や指導者を数多く輩出しています。
その嚆矢ともいえる魯迅は、仙台が迎えた初めての中国人留学生でした。
東北大学出版会からは、『東北大学留学百周年 魯迅と仙台』、『魯迅の仙台時代 ―魯迅の日本留学の研究』などの労作が刊行されています。ぜひ東北大学在学中での一読を勧めます。史料館には、「魯迅コーナー」もあります。東北大学に学びながら、史料館を見ないで卒業しては、とてももったいない話です。東北大学の発祥の地である片平キャンパスを訪れるよいチャンスともなるでしょう。
日中関係において、魯迅留学をはじめとする東北大学や仙台市の果たしてきた役割は、学問・研究という世界共通のいとなみと歴史につながっています。日本の大学の国際化が強く叫ばれている現在です。魯迅留学の事実は、東北大学にとって、貴重な「縁(えにし)」、結節点として、これからますますその歴史的な意義と重要性が認識され、大きな役割を果たすことでしょう。
魯迅は、中国を代表する文豪です。まずは作品を読むことからはじめなければなりません。ところが、読み出すと、当時の中国の驚くべき現実とそのことへの魯迅の激烈な批判精神、いわば憤怒に直面します。軽い気持ちで魯迅の著書を手にした読者が思わずたじろぐほどの激しさと鋭さです。それだけ、魯迅は祖国中国への危機感と使命感に燃えていたのでした。試しに今回の魯迅のプロフィールを読んでください。科挙試験「進士」の清政府のエリートであった祖父が、魯迅の父の科挙の試験の合格画策のため、試験官への贈賄の罪で死刑の判決を受け、監獄に入っています。このこと一つをとっても、ぎょっとする事実ではありませんか。科挙の受験者である魯迅の父は、おとなしい人柄でしたが、当時の中国社会の宿痾(しゅくあ)であるアヘン吸引の常習者であったといわれます。魯迅の育った家庭環境はとても困難な状況でした。
祖父が社会的に健在な時期には、年少でありながら魯迅は旦那様扱いを受けていました。ところが、祖父が下獄。その死刑執行を免れるための毎年のいわば“袖の下”捻出のために家産を次々に処分、零落していきます。身を寄せた親戚には“乞食”とまで陰口される始末でした。聡明で科挙受験を自明のこととして成長した秀才少年魯迅にとって、耐え難い屈辱であり、てのひらを返す社会の扱いであったことでしょう。
《 人生で最も苦しいことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります 》
このような八方ふさがりの魯迅の前に、道が拓かれます。教育費無料の陸軍の洋式学校である江南陸師学堂附属鉱務鉄路(地質学)学堂への入学であり、さらには清政府による日本への官費留学の道でした。1902年(明治35)に来日し、日本語学校である弘文学院速成普通科を卒業。医学への道を求め、まだ中国人学生が誰もいなかった仙台医学専門学校に入学します。1904年(明治37)9月のことでした。旧制の第二高等学校の医学専門部から分離独立した学校であったため、校舎は二高と共有したものが多く、いまの東北大学片平キャンパス内にありました。そのため、前述の階段教室の存在につながるわけです。魯迅が最初に下宿した住居は、広瀬川に面した道路沿いに現在も残っています。
「藤野先生」こと藤野厳九郎(げんくろう)教授の担当は「解剖学」でした。医学生の最初の関門は、人体組織の隅々までを学名で系統立てて記憶することです。現代においてもその難しさは同じでしょう。藤野の試験はその名のとおり厳しく、学生が落第する原因の相当数が解剖学試験の成績不良でした。日本語がまだ十分とはいえなかった魯迅です。解剖学講義の理解の難しさはなおさらでしょう。
そのようなときのことです。魯迅は、藤野から呼び出しを受けます。自伝的な作品『藤野先生』から、この後の二人の交流を見ていきましょう。
骨格標本や頭蓋骨で一杯の藤野の研究室で、魯迅は、講義が聴き取れるかとの質問を受けます。『はい、いくらかは』と答えると、藤野はノートを週に一度は持ってきて見せるようにと命じました。魯迅は、藤野から返された自分のノートを見て、思わず驚きの声を挙げます。びっしりと朱筆で添削がされていたではありませんか。日本語の手直しまでなされていました。「骨学」、「血管学」、「神経学」と講義の終わりまで、こうした添削が休むことなくつづけられました。
中国人留学生と藤野のたゆみない交流を知っていた落第組みの同級生の中には、魯迅が無事に第二学年に進級できたのは藤野が試験問題を漏らしていたからでは…。このような心無い邪推すら生むほどでした。
この不愉快な出来事があったあとに、「幻灯事件」が起こります。第二学年になると「細菌学」の講義が始まり、細菌の顕微鏡写真を幻灯で見せられます。講義の時間が余ると、当時の日露戦争での日本軍活躍の様子が幻灯で映されました。その中に、ロシアの密偵として捕らえられた中国人の処刑の場面を写した一コマがありました。銃殺される中国人スパイの周囲を取り囲み、中国人の群集がただぼんやりした顔で見物している姿も映っていたのです。いま真に必要なのは、私たち中国の大衆の意識の覚醒ではないだろうか。このとき、魯迅は、身体を直す医者よりも、心を直す文学者になることが急務と決意した、といわれています。
文学への道を突き進むため、仙台を去ることになった魯迅に、藤野は、自分の映った写真に「惜別」の文字を記し、はなむけの品として贈ったのでした。作品の最後には次のように書かれています。
《 …先生の写真だけは今でも私の北京の寓居の東側の壁、机の正面にかかっている。いつも夜になって疲れが出、ひと休みしようかと思うとき、顔を上げて、灯りの中の先生の浅黒い痩せ形の顔が、今にもあの抑揚のある口調で話しかけてきそうになるのを見ると、私は俄然良心に目覚め、勇気が満ちてくるのを覚える。そこで、やおらたばこに火をつけ、「正人君子」の輩の憎悪の的となっている文章を書き継ぐのである。》
わずか一年半の在学でしたが、文豪魯迅誕生への記念すべき地となった仙台医学専門学校への留学でした。
東北大学史料館では、「惜別」と書かれた写真はもちろん、こと細かく添削された魯迅の「解剖学」講義のノートも展示されています。作品の文中では魯迅が失くしてしまったと記述されている添削ノートは、後年に発見されました。そのノートの複製されたものを史料館で見ることができます。一つひとつきめ細かく朱筆で添削され、驚くほどの几帳面さがうかがえる内容です。たいへん懇切丁寧な添削を目の当たりにしますと、魯迅の藤野への感謝の心が、見るものにもしみじみと伝わってくる思いがします。
魯迅の離仙後に、仙台医学専門学校を母体として東北帝国大学医科大学が創設されました。教官の資格として、帝国大学卒であることが求められます。藤野は、医学校の卒業であったため退官することになりました。「解剖学」という基礎医学の教授が、突然に町医者への転進を余儀なくされます。この事情を、魯迅は知る由もありません。藤野もまたあらたな人生を歩むことになります。しかし、代々つづく町医者の家系です。故郷の福井県に帰り、地域の人々に慕われ、尊敬される開業医として充実した後半生をおくりました。藤野の長男恒弥は、父が教授として任官できなかった東北帝国大学医学部へ進学し、卒業しています。この事実を知り、なぜか胸が温かくなる思いがするのは筆者だけでしょうか。
魯迅は、1909年(明治42)に帰国。その間の7年は、日本で文芸執筆を模索、清朝打倒の光復運動に関わる中国人留学生や活動家とも親交を重ねていました。
帰国後の魯迅は、「文学革命」と白話(口語)文学の指導者として高く評価されます。激烈な思想も発表、広く社会に訴える運動も展開します。当時の中国では、まさに命がけの執筆であり、革新思想の表明でした。清朝の打倒から孫文による辛亥革命、さらには袁世凱の軍閥政権へという中国の混乱期に、漢民族一人ひとりの精神の覚醒と改造を呼びかける論文と作品を発表しつづけます。新中国の未来に期待をし、病身の身でありながら倦むこともなく筆を執り、活動しました。一時は命まで狙われています。論文や作品発表のペンネームを百ほど変えて使い分けたのも、危険人物としてマークされて生きていた魯迅らしい周到な自己防衛策です。「魯迅」とは、その数多い筆名の一つでした。
そうした境遇にあっても、魯迅は日本人との親密な交流は持ちつづけます。日本から「魯迅選集」の発行の企画が提案されたとき、魯迅は快諾。ただし、発刊に関して求めた唯一の条件がありました。それは、作品『藤野先生』を必ず選集に収録して欲しいとの希望です。魯迅の藤野に対する深い尊敬と感謝の思いがいかに強かったか…。このことからも納得していただけることでしょう。
魯迅は、死後において、ますます偉大な存在として中国で敬愛を集めています。作品『藤野先生』は、中国の中学校の国語の教科書に採録されています。そのため、魯迅が留学した仙台は、東京に次いで中国人に知られている日本の都市の名前である、との話も聞くほどです。
《 もともと地上に道はない。歩く人が多ければ、それが道になる。 》
よく耳にする名言ですが、魯迅の残した言葉として世間で広く知られ、使われるようになりました。
魯迅が仙台に留学したおかげで、東北大学が立地するこの街には、魯迅を顕彰する記念物がたくさんあります。青葉城址の三の丸跡には、「魯迅の碑」が建っています。東北大学片平キャンパスには魯迅も学んだ階段教室が残っています。東北大学川内南キャンパスの東北大学図書館の入り口には、「魯迅先生」と「藤野先生」の胸像が仲良く並んでもいます。
かつての魯迅と藤野のように、現在も、東北大学の外国人留学生たちには、それぞれの“藤野先生”がきっと存在していることでしょう。
そうした個人的なつながりが、近い将来、さらに大きく、太いつながりとなって、日本と外国とのより開かれた交流へと発展するに違いありません。つまり、道が生まれるのです。
未来の魯迅や「藤野先生」とは、なにも外国人留学生だけの存在とは限りません。いま、この文章を読んでいるあなた、そう、あなたのことなのかも知れません。
魯迅(本名:周樹人(チョウ・シューレン))。1881年(明治14・光緒7)、中国浙江省紹興生まれ。家は官吏登用試験「科挙」の試験の合格者を出す地元の名望家。祖父は「進士(科挙試験最高レベル)」合格、中央官庁の要職を務めたが、退職後に魯迅の父の科挙の試験官への贈賄事件で下獄。さらに父の病死で一家は零落。魯迅は少年の身で家長の責任を担う。「科挙」の準備もしながら、清末に誕生した学費無料の陸軍の洋式学校、鉱務鉄路学堂に入学し卒業。清政府の官費留学生として1902年(明治35)来日。日本語学校を卒業し、1904年(明治37)、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部の前身)に進学。まじないに近い医療に頼る中国の人々を近代医学で救いたいとの思いがあった。解剖学教授の藤野厳九郎との心の交流は自伝的作品『藤野先生』で著名。しかし、半植民地化された中国を救うためには「身体」の前に人々の「精神」を治すことが先決と決意。仙台を離れ「文学」の道に進む。後に、中国の近代文学を開拓。「文学革命」の指導者、新中国を生む思想家として活躍。中国を代表する文豪。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。東北大学には、魯迅が学んだ階段教室が残り、中国の江沢民国家出席も来訪。『藤野先生』は中国の国語の教科書に採録。いま東北大学では多数の中国人留学生が学ぶ。1936年(昭和11)、結核で逝去。享年56歳。
主な参考資料
▽『藤野先生と魯迅 惜別百年』 「藤野先生と魯迅」刊行委員会編 東北大学出版会 2007年 ▽『魯迅の仙台時代 ―魯迅の日本留学の研究』 阿部兼也著 東北大学出版会 1999年 ▽『仙台における魯迅の記録』 仙台における魯迅の記録を調べる会編 平凡社 1978年 ▽『魯迅事典』 藤井省三著 三省堂 2002年 ▽『魯迅の世界』 山田敬三著 大修館書店 1977年 ▽『魯迅 その文学と革命』 丸山 昇著 平凡社 昭和四十年 ▽『東北大学史料館紀要 第7号 魯迅と東北大学―歴史の中の留学生――永田英明 』 東北大学学術資源研究公開センター史料館編集・発行 平成24年 ▽『魯迅烈読』 佐高 信著 岩波書店 2007年 ▽『阿Q正伝・藤野先生』 駒田信二訳 講談社文芸文庫 1998年 ▽『魯迅全集: 野草・朝花夕拾・故事新編』 学習研究社 1985年 ▽『魯迅全集 魯迅著訳年表・収録作品索引・注釈総索引』 学習研究社 1986年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年