第二代総長。「門戸解放」と「研究第一主義」など、東北大学の伝統(ブランド)を創る。
組織の未来とは、初代トップはもちろん二代目、三代目の人物の力量で決まることが多いようです。「売り家と唐様で書く三代目」といわれる由縁です。
東北大学は、初代総長が日本を代表する教育政策立案者の澤柳政太郎。二代目は人格者で実務にたけた北條時敬。当代きっての優れた人物を総長にいただく幸福なスタートを切りました。
東北大学の建学の精神、「門戸開放」、「研究第一」、「実用忘れざるの主義」とは、初代澤柳が新たな文明を担う学術第一の大学戦略を描き、二代目北條総長がそれを見事に具現化し実現。
こうして、東北大学の誇る伝統や学風、つまり“東北大学ブランド”が創られました。
北條は、広島高等師範学校(現広島大学)の初代校長を十二年間も務め、名校長として伝説的な存在になる実績を挙げます。後に広島高等師範の同窓会組織「尚志会」の会報で、特別冊子「尚志百〇九号 附録 北條時敬先生」が刊行されたほどです。
もともと北條は、東京帝国大学理学部数学科の大学院を卒業した優秀な数学者です。学者としての才能を惜しまれながら、山口高等学校(旧制)の校長を務めるなど次第に教育者としての令名が高くなります。加賀藩士の家に生まれ、古くは鎌倉幕府の北條氏の流れを汲む家柄といわれます。郷里の第四高等学校(旧制)の校長も務め、金沢時代の教え子には、かの西田哲学の西田幾多郎、禅を世界に広めた鈴木大拙、緯度観測の業績で著名な木村栄(ひさし)などを輩出。これら日本を代表する人物から、尊敬する師として生涯にわたり深い敬愛と思慕を受けています。広島高等師範の生徒からもゆるぎない尊敬と信望を集めました。東北帝国大学総長への栄転に、一途な生徒たちから激しい留任運動がわき起こるほどでした。
1913年(大正2)の東北帝国大学総長就任は、二階級特進の大抜擢として驚かれるほど異例な人事です。いかに北條の教育者としての実績と能力、識見が高く評価されていたかが理解されるでしょう。東北帝国大学総長の在職中に、北條は学習院院長への転出を強く招請されたほどです。皇太子を含めた皇族や華族の子弟の訓育、指導を担う重責で、かつては乃木希典(まれすけ)陸軍大将も務めています。北條の学習院院長の退任後は、宮中顧問官、貴族院議員に列せられました。教育者として最高の栄誉を受けた北條でした。
東北大学史料館の展示物の白眉は、北條総長宛の文部省専門学務局長よりの「女性入学に関する照会状」です。日本初の女性大学生の受け入れを画す東北帝国大学への「 …前例無之事ニテ、頗ル重大ナル事件ニ有之…」という、正式な入学を止めさせようとする、まさに詰問と圧力の文書でした。その現物書類の上部には、朱筆で添え書きされた「完結」の文字。総長として文部省との交渉に当たった北條の苦労と努力、そして当初の目標通りに女性の受験と入学を実現できた誇らしさ、安堵が感じられる朱色の二文字です。
1913年(大正2)、東北帝国大学理科大学に女性三名が優秀な成績で入学しました。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の助教授黒田チカ(29歳)と日本女子大学校の助手丹下ウメ(40歳)が化学科、数学科に東京女子高等師範の授業嘱託牧田らく(24歳)です。三人の入学式の着物の柄や髪型に至るまで面白おかしく新聞記事に掲載されるほど世間の耳目を集める“一大事件”でした。女性の最高学府への進学が奇異に捉えられた当時の日本の教育環境です。三人は期待にたがわず日々精励、卒業後に我が国の女性科学者のパイオニアとして活躍します。
日本で初めて女性の入学を実現した大学…初めてを始める東北大学らしい歴史的な快挙でしょう。その後も、もっとも多くの女性が入学した官立大学は東北大学でした。東京大学の女性入学は戦後です。いかに東北大学が、向学心あふれる優秀な女性たちの「不可能の扉を拓く」憧れの大学であったことか。この一事をもってしても、よく納得できるのではないでしょうか。
女性の入学を可能にしたのは、東北帝国大学の「傍系入学」の制度を活用したものです。
それまでの帝国大学は、大学予科の役割を担う旧制高等学校の卒業生だけに入学資格を限定していました。当時の帝国大学生とは、北條の講演メモによれば
≪小学生徒数、官立学校学生数の比
尋常小学科就学 1,954,896(明治28年現在数)…(中略)… 帝国大学 1,620(小学校生徒数ノ1200分ノ1)≫
まさに一握りのエリート中のエリートでした。家庭や経済の事情で、旧制高等学校への進学の道をいったん外れると、いかに優秀で、向学心に燃えた俊才でも入学できない高嶺の花が帝国大学です。このことは、日本の指導者育成、国家発展において大きな社会的な損失でした。
この閉塞状況に、東北帝国大学は敢然と風穴を開けたのです。高等職業学校であった官立専門学校生や中等学校や師範学校の教員免許を持つものにも受験資格を与えました。いわゆる「傍系入学」です。この制度を活用し、女性の受験も可能になりました。専門学校に在学しながら、さらなる深い学問と研究を希望する全国の俊英は、ここに将来の希望の灯を見出したのです。
東京大学総長で学術会議議長も務めた茅誠司、東海大学創立者の松前重義、世界の金属研究をリードした増本量など、東北帝国大学の「傍系入学」者の多彩な活躍には目を見張ります。
標記の北條の言葉を持ち出すまでもなく、傍系入学者は学問できる喜び、学術の最新研究に携わる幸せに、日々を夢中になって研鑽に励んだ当然の成果でしょう。
かくして、「研究第一」と能力以外では区別しない、東北大学の闊達な学風が培われたのです。
1913年(大正2)9月22日、東北帝国大学開学式兼東北帝大理科大学開学式が挙行されました。総長として式辞を述べたのが北條です。当日は、大勢の市民が東北帝国大学に繰り出し、旧制の二高の生徒や市内の中学生の提灯行列も行われるなど、仙台市内は祝賀ムード一色に湧き立ちました。
実は、当時の東北帝国大学の入学生の半数近くが、世界と競う新進気鋭の教授陣よりも歳上でした。彼らにはどれほど待望久しい帝大であったことか。痛いほど実感できます。
北條は、将来の総合大学化をめざし、次々と布石を打ちます。
1912年(明治45)には、すでに大学附属として医学専門部と工学専門部が設置されていました。将来の東北帝国大学の総合大学化のための動きです。研究第一の学術大学として広い学問領域に一流の研究者を擁することは、澤柳以来の東北帝国大学の悲願でした。
1915年(大正4)、東北帝国大学医科大学が誕生。同年9月に、帝大としては四番目の医科大学として入学生を迎えます。
北條は、「研究第一」のため≪学問研究ノ風ヲ興スベキ事≫を方針とし、既存の医学専門部とは一線を画し新たな組織として発足させ、教官の人事案件など様々な課題に忙殺されることになります。札幌の東北帝国大学農科大学が将来には北海道帝国大学としての分離が見込まれたため、まさに心血を注いだ医科大学の創立でした。
北條は、1915年、理科大学に臨時理化学研究所を設置。民間の寄付による大学の産学連携研究機関の日本の嚆矢でした。実用研究を第一の目的とし、学外の有志者からの寄付金でまかなわれるものです。そこからは本多光太郎博士の「KS磁石鋼」の発明が生まれ、後年に「附属鉄鋼研究所」へと発展。現在の「金属材料研究所」、“世界の金研”の始まりでした。
さらに工学専門部は、1919年(大正8)に、「大学令」の施行により「工学部」の名称で新たに発足。八木秀次教授による「八木・宇田アンテナ」の発明など「電子立国日本」の源となったことはあまりにも有名です。
その時すでに、北條は学習院院長として転出した後のこととなります。
澤柳と北條が、主張し、目標とした「研究第一」と「実用忘れざる主義」が、まさに文明の先頭に立つ東北大学を生み出したのでした。
「東日本大震災」という歴史的な災難のただ中で被災体験をした東北大学です。
このような危機にこそ、初代澤柳、二代北條の両総長により東北帝国大学に託くされた理想、「文明を切り拓く学術大学」としての建学の精神に思いをいたすべきときではないでしょうか。
そこに、“東北大学ブランド”をさらに煌かせ、世界をリードする新たな大学像を生み出す貴重な指針を必ずや見出すことでしょう。
東北大学の未来とは、教員、学生、職員、同窓生の≪今日ノ研鑽中ニ胎胚≫しています。
1858年(安政5)金沢生まれ。東京帝国大学理学部数学科大学院卒。初代総長澤柳政太郎の京都帝国大学総長転出を受け広島高等師範学校校長より抜擢、1913年(大正2)第二代総長に就任。理科大学に三名の女性の入学を文部省の反対を押し切り実現。高等学校(旧制)卒業者だけでなく専門学校卒業者等への帝国大学への門戸を開く「傍系入学」のまさに象徴的な出来事。社会から大いに注目を集めた。学術的な向学心に燃える全国の俊英の希望の星の帝大、実力主義の東北帝国大学となる実績を創る。大学昇格を前提に医学部専門部、工学部専門部が発足。後の法文学部とあわせ、総合大学への道を拓いた。総長として開学式を挙行、実務的な大学創建者ともいえる。1917年(大正6)に学習院院長に転出。後に宮中顧問官や貴族院議員を歴任。享年71歳で1929年(昭和4)没。
主な参考資料
▽『偉大なる教育者 北條時敬先生』 上杉知行著 北国出版社 昭和53年 ▽『廓堂片影』 西田幾多郎編 教育研究会 昭和6年 ▽『尚志第百〇九号 附録 北條時敬先生』 尚志同窓会 ▽『東北大学五十年史 上』 東北大学 昭和35年 ▽『東北大学百年史一 通史一』 東北大学百年史編集委員会編 東北大学出版会 平成十九年 ▽『東北大学史料館紀要 第9号』 東北大学学術資源研究公開センター史料館編集・発行 平成26年 ▽『言葉が独創を生む 東北大学 ひと語録』 阿見孝雄著 河北新報出版センター 2010年