「ゴールデンウィーク中は剱岳登山のため、解剖オリエンテーションを欠席します。チーフリーダーは言わば公務なので、それを優先させて戴きます」。列車の中で浦良治教授宛の手紙を認(したた)めていたのでした。今、考えればとんでもないことなのですが、当時は大真面目でした。1963年、医学部の学部一年の時のことです。学生生活は始めに山岳部ありきで、年間4分の1は登山靴を履いていました。今では考えられないことと当時部員だった現教授の方々は言いますが。
 卒業後はさすがにあまり山に行けなくなりましたが、現役部員には最優先で相談に乗る毎日でした。山登りは準備段階で成否が半ば決まると言われますが、1985・86年のチベット登山はその典型でした。海外登山では若手OBである大学院生が中心で隊を編成しますが、各々専門を生かしてミニ学術調査を課しています。チベットの際は戦後初、また日本人としては全く初めての踏査地域であったため計画は膨らみ、実現を危ぶむ声も出始めました。そこで計画をさらに充実させ独立した学術調査班を組織することにしました。逆転の発想です。人文班長は山の会々員の東京経済大学教授色川大吉さん(旧制二高山岳部)が務めましたが、植物班長は理学部の内藤俊彦先生にお願いし、大学院でチベット仏教を研究していた奥山直司さん(現高野山大学教授)も加わるなど、学内外からも学術調査隊員を募りました。これにより計画に見合った後援会が組織されることとなり、会長に石田名香雄学長、名誉会長に黒川利雄元学長、顧問には茅誠司元東大学長、稲山嘉寛経団連会長など、当時の東北大学最高の布陣となったのでした。実行委員長の佐藤春郎教授、総隊長の葛西森夫教授以下の働きによるものでした。登山も学術調査も大成功を収めて大部の報告書として出版され、多少とも社会に還元出来たのではないかと思います。山岳部史三部作の殿(しんがり)として昨年5月刊行の『新制東北大学山岳部50年史“新たなる高み”へ』の中にもその大要が纏められています(写真)。


 私は、現在、仙台市の片隅で小さな診療所を開いていますが、山岳部での経験、山での人との繋がりを通じて得たものが日頃の診療に影響していることを強く感じることがあります。人は誰しも若い時に出会った困難がその後の人生の重大な局面で役立った経験を持っているものですが、私の場合はそれが山であり、山岳部なのです。
 東北大学に学ぶ、あるいは東北大学を目指す若い皆さんが、それぞれの「山岳部」を持ち、それぞれの夢に向われることを心から祈って已(や)みません。

 





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