シリーズ食の哲学
<3> 食と文学
『随園食単(ずいえんしょくたん)』紹介
佐竹 保子=文
text by Yasuko Satake

 中国清(しん)王朝の初期、西暦にして1716年、浙江(せっこう)省の杭州(こうしゅう)に、一人の男の子が生まれました。のちに「中華料理のバイブル」と称される『随園食単(ずいえんしょくたん)』を著すことになる、袁枚(えんばい)です。
 袁枚の父は、地方の官僚に私的に雇われる「幕客」で、各地を転々としていました。留守をあずかる母は、姑や小姑をも養いながら、乏しい家計をやりくりして、幼い袁枚に家庭教師を付けました。その甲斐あってか袁枚は、24歳で科挙(かきょ)に合格します。しかし37歳の時、父の死をきっかけに官吏を辞め、地方官時代に買った南京の土地に引退し、そこに「随園」という庭園を営みます。以後長い年月をかけて、理想の庭を造りあげてゆくのです。
 袁枚は82歳の長寿をまっとうしています。辞職後の半世紀にわたる生活や、魅入られたような庭園経営を可能にしたのは、彼の職業作家としての手腕でした。彼の詩は、朝廷の高官から市井の庶民にまで広く愛され、「琉球から来る外国人まで購い求めた」といわれます。彼はまた詩論家でもあり、伝統的な詩学のきまりやお手本よりも、個々人の真情を重視する性霊(せいれい)説という詩論を唱えました。取材旅行をすれば、ファンや弟子たちが争って贈り物をしたので、旅費を準備する必要がなかった、と伝えられています。
 売れっ子作家として当時の人々の心の機微を知り尽くした袁枚が、その晩年、70歳を越えてから著した本が、『随園食単』です。本のはじめに「知っておくべきこと」として「天の与えた性質を知ること」とあります。曰く、料理の素材が悪ければ、名コックが調理しようともまずくなる。ゆえに一席の美食の功績は、コックが6割、買い出し係が4割。これは何ともまっとうな料理の基本です。

「随園食単」表紙(岩波文庫)
「随園食単」表紙(岩波文庫)

 「知っておくべきこと」の第10条には「物にはそれぞれ固有の味があるから、まぜこぜにしてはならない」とあります。曰く、今の俗なコックは、鶏もアヒルも豚もガチョウも、同じ汁で煮る。これでは同じ味になり、蝋(ろう)を嚼(か)むような味気なさ。鶏やアヒルや豚やガチョウは、必ずや無駄死にした者の行く地獄で、コックの罪を訴え出るであろう。さらにその第20条「本分を知ること」には、次のようにあります。漢人が満洲(まんしゅう)人(清王朝の中枢を担う民族)を招く時は、漢族の料理を出すがよい。客の歓心を買おうと、漢人が満洲料理で満洲人を招いたり、満洲人が漢族料理で漢人を招くのは、虎を描こうとして犬になる愚挙である。自己の本領を堂々と発揮するがよい。
 『随園食単』の第2章は「戒めること」です。その第3条に「耳餐(じさん)を戒める」とあります。「耳餐」とは、料理の味ではなく、その名声で食べることです。第6条には「停頓を戒める」とあります。曰く、味の新鮮さは、鍋をおろしたその瞬間にある。少しでも時間をおけば、カビの生えた綾錦(あやにしき)も同じ。あるせっかちな主人のもとで、コックが宴席の料理をすべて作り置いて蒸し器に入れ、主人の命令を待ってからテーブルに出していた。こういう料理がおいしいはずがあろうか。
 『随園食単』から長々と引いたのは、右に書かれてあることがすべて、袁枚の詩論に通じているからです。袁枚は、名作の真似をせず、天から与えられた自らの感性と個性を信じ、それを堂々と発揮することを主張します。少しでも作った感情や虚飾は認めません。生き生きとして活発な、その時その時の真情を大事にし、「精気の尽きた竜よりも、横行するネズミの方がまし」とまで言い切ります。袁枚にとって、食も詩も、さらに言えば庭造りも、根源を一つにして通じ合っています。どれも同じ芸術だという声が、『随園食単』から響いてくるのです。
 ひるがえって考えれば、食をまっとうな形で追い求める情熱よりも、経済効率や資本の論理が優先する時、それは同時に文学や芸術も衰退の道をたどる時なのではないでしょうか。あるいは逆に、文学や芸術が衰えると、食の文化も歪み滅びていくのでしょうか。『随園食単』はその意味で、文明批評の書でもあります。私の属する研究室の初代教授である青木正児(まさる)先生の名訳が、岩波文庫にも、春秋社の『青木正児全集』第8巻にも、入っております。ぜひ一度ご覧ください。


佐竹 保子 さたけ やすこ

東北大学大学院文学研究科教授
専門:中国文学
http://www.sal.tohoku.ac.jp/zhongwen/index.html


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