東北大学ゆかりの文学者たち
シリーズ 東北大学ゆかりの文学者たち 3
魯迅と東北大学
花登 正宏=文
text by Masahiro Hanato
 
 
「藤野先生」と東北大学

「僕の講義、ノートにとれるかね」と藤野先生はたずねられた。「すこしはとれます。」「では、見せてごらん。」私がノートを手渡すと、先生はそれを受け取り、2、3日してそれを返してくださった。その時、これからは毎週一度見せてくれたまえとおっしゃった。それを受け取り開いてみて、非常に驚くと共に不安と感激をおぼえた。というのは、私のノートには始めから終わりまで朱が入れられ、私の書き漏らしたことが補われているばかりでなく、文法の誤りまでが逐一訂正されていたからである。このようなことが先生の担当されていた骨学・血管学・神経学といった授業が終わるまでずっと続いた。

 魯迅の自伝的小説『藤野先生』のよく知られた一節です。時は1904(明治37)年9月、仙台医学専門学校内の解剖学担当教官藤野厳九郎教授の研究室がこの場面の舞台です。登場人物は藤野教授と中国人留学生周樹人の2名。この時、藤野は30才、周樹人来仙の2ヶ月前に教授に昇進したばかりでした。一方、周樹人は23才、この周樹人はのちに中国の生んだ世界的文豪魯迅となります。
 「藤野先生」のその後の展開を簡単に述べますと、周樹人こと魯迅はこのようにして仙台での医学修行を始めましたが、藤野から解剖学の試験問題を漏らされたのではないかと同級生に疑われた試験問題漏洩事件に巻き込まれ、さらにそれに続いて有名なひとつの事件が起こります。当時、授業の空き時間に幻灯を映写することがあり、ある日の幻灯に周樹人は大きなショックを受けます。当時中国を舞台にして日露戦争が進行中でしたが、その日階段教室で映写された幻灯の中に、ロシアのスパイとされた中国人が日本軍により処刑され、さらにそれを同じ中国人が見物に興じている場面を目にしたのです。これがいわゆる幻灯事件です。そして、これらのことを契機に周樹人は医学を棄てて文学の道を歩む(棄医従文)決意を固め、仙台を離れることとなります。別れに際し、藤野は周樹人を自宅に招き、記念として自身の写真一葉を送ります。その裏には「惜別」の二字がしたためられていました。
 「藤野先生」は、半植民地的状況下にあった中国の学生と、帝国主義への道を歩む日本の教師との出会いと別れを描いた短編小説であり、教師と留学生、そして日本と中国とのあり方について、つねに私たちに見直すことを迫る感動的な作品となっています。この小説の舞台、そして魯迅が医学への道を棄て、文学へ進む契機となった場所が、ほかでもない東北大学医学部の前身仙台医学専門学校だったのです。

「魯迅像」「藤野厳九郎像」
 
その後の魯迅
 魯迅は、1904年9月より1906年4月まで仙台に在住、その後東京に戻り、1909年8月に帰国、故郷紹興の教員や教育部(文科省)の役人などを務め、そのかたわら1918年には処女作「狂人日記」を発表し、文筆家としての道を歩むこととなりました。しかし、歯に衣着せない言動は当局の忌避するところとなり、1926年8月末には身の危険を感じて北京を脱出、その後短期間厦門大学、広州の中山大学の教員を務めた後、1927年10月には上海に移り、ここが魯迅の終の棲家となりました。ついでに申しますと、この「藤野先生」は1926年に脱出先の厦門で執筆されたものです。上海では、常に身の危険を感じながらも文筆活動に専念し、1936年10月19日、持病のぜんそくの発作で急逝しました。享年26。魯迅は「孔乙己」・「故郷」・「祝福」・「阿Q正伝」などよく知られた小説の外に、「雑感」と呼ばれる独自のスタイルのエッセーを多く著しました。ほかに、『中国小説史略』など古典文学研究の著作もあり、その全著作は『魯迅全集』18巻(人民文学出版社)に収められています。
 最後に、作家としての魯迅を世界で初めて高く評価したのは、本学の中国文学講座初代教授の青木正兒先生であり、このことも是非紹介しておきたいと思います。
(写真の胸像はともに本学附属図書館所蔵。情報科学研究科窪俊一准教授撮影。)
 



花登 正宏

はなと まさひろ

1947年生まれ
東北大学大学院文学研究科教授
専門:中国語学文学
http://www.sal.tohoku.ac.jp/zhongwen/


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