NANO-METER RANGE
分子間に働く力

栗原 和枝=文
text by Kazue Kurihara


ナノメートルレンジの測定  
 私たちの身体は、たくさんの分子から構成されています。では、どうして生物の形ができ、いろいろな機能が働くのでしょうか。簡単に言えば、分子間に相互作用(引力や斥力)が働いているためです。全て物質の性質は分子間の相互作用により決まっていると言っても過言ではなく、その解明は物理・化学の基本的な課題の1つであると同時に、新しい材料の設計や生命科学にも重要な要素です。

分子に働く力を測る(表面力測定)

 バネばかりを用いて分子の間(実際には物質の表面の間)に働く力を測定しようとする試みは70年程前まで遡ることができますが、最近ナノメートル(メートルの10億分の1の単位)以上の精度での測定が可能となり、新しい研究分野が展開しつつあります。この発展には、ナノメートルレベルで表面を動かしバネの変位を測定する技術など、現代の精密工学が大きく寄与しています。
 この表面力測定と呼ばれる相互作用測定の原理は、非常に単純です。2つの向かい合う表面の一方をバネばかりにつなぎ、気体または液体中で、表面間の距離を変えながら働く力を測ります(図1)。分子間・表面間の相互作用は力の種類(起源)によりその大きさの距離依存性が異なります。例えば、基本的な力の一つであるファンデルワールス力(分子間に働く弱い引力)は、平板間では距離の3乗に反比例して減少します。従って、相互作用が引力か斥力か、そしてその力の関数型を調べることは、分子間や表面間の相互作用を解明する最も直接的な手段です。
 学生時代から私は、分子が弱い相互作用を利用して集合する(自己組織化と言う)さままざまな分子組織体を対象として研究してきました。これら分子組織体の特性を具体的に明らかにしたいと、表面力測定という研究を始めました。
 未来技術をめざす材料や化学プロセスの開発では、材料や装置がますます微細・精密になっています。そこでは、分子間・表面間の相互作用や界面の特性の理解・制御は欠かすことができません。最近しばしばマスコミに取り上げられる材料ナノテクノロジー(原子や分子を組み立て集めて新しい材料を作ろうとする工学)は、その1例です。これら未来技術に、表面力測定は重要な基礎データを与えます。
 また塗料・インク・化粧品・コンクリートなど多くの汎用材料では、粒子の分散や凝集状態の制御が重要であり、表面力測定により直接的な評価・設計が可能となります。例えば、粒子表面にカルボン酸があると、COO-というイオンの形では斥力が働いて分散しますが、COOHという形では引力が働いて凝集するので、化合物の種類だけでは相互作用は必ずしも予測できず、直接測定が必要です(図2a)。また材料表面の修飾・改質法のひとつである高分子の吸着の様子を見ることもできます(図2b)。
 私たちは、この表面力測定を、物質や材料科学の分野で自在に利用し、新しい研究分野を拓きたいと考えて研究を行っています。測定によって見える新しい分子の描像のいくつかを紹介したいと思います。

 

【図2】材料の表面評価
 
【図1】表面力測定の概念図
 
 
【図3】表面力測定により見える分子の新しい描像
 
分子は他の分子を どう識別するか?
 生体は多くの分子が働く工場です。その時に働く相互作用を見ることはできるのでしょうか。私たちは、遺伝情報の担い手である核酸塩基の一種、アデニンとチミンを表面に並べて相互作用を測定し、この間に引力を見出しました。またタンパク質間ならびにタンパク質―DNA間などにおいて、分子が互いを識別する相互作用を測定しています(図3左)。相互作用をしている分子の識別は生体機能の理解に重要であり、将来は薬の開発などにもこの手法を利用できるかもしれないと考えています。
分子に触る手― 分子の長さや固さを見る
 分子には大きさがあるので、バネをつないだ表面で分子に触ると、分子の大きさや固さを測定することができます。私たちは、液体中のポリペプチドや高分子電解質(高分子のイオン)1本の長さや固さの測定に成功しています(図3中)。これは、さまざまな材料に利用される高分子の物性を理解する基礎になる研究です。
固体表面や微細な空間の液体の構造
 固体の表面の液体が特殊な状態をとることや、またナノメートルオーダーの微細な空間の液体が固体的に振舞うことがあります。最近ミクロン(メートルの10万分の1の単位)以下の反応器や、血管の中を動くロボットなどが研究され始めていますが、固体表面の液体の挙動を具体的に理解することが、これらの開発には必須な要素と考えられます。表面力測定や私たちの開発した新しい測定法(ナノ共振ずり応力測定)によると、分子の大きさ、規則的に並ぶ構造化、そして組成の境界などを見ることができますので、表面の液体の構造を研究する強力な手段となります(図3右)。
 例えば、私たちは二つの表面間の距離をナノメートルレベルで変えながら、その間の液体や液晶の粘度や構造がどう変わるかを明らかにしてきました。またアルコールが固体表面に吸着し、水素結合により約百分子程度つながった構造を作ることを見出しています。かなり大きい厚みの構造が存在したことは、驚きでした。見出した現象を、固体表面のナノコーティング法などの新しい材料作りに利用したいと、モノマー(出発物質)を吸着させその場で重合する高分子薄膜の調製を行っています。
相互作用研究の課題
 日常、私たちは教科書や論文で分子間相互作用という言葉を見慣れているために、相互作用は良く分かっていると考えがちです。しかし、表面力測定で実際に相互作用を測ってみると、従来の知識では理解できない現象(長距離の引力や斥力など)にしばしば出会います。それは、多くの分子そして溶媒が存在する時の相互作用が十分に解明されていないためです。物質はほとんどの場合、多分子で存在し、溶媒の存在も普通ですから、物質の理解という意味では大きな課題が残っていることになります。物理では複雑系と呼ばれている対象ですが、化学は単純化した試料を提供できますので、現象をクリアに見ていくことが解明につながると考えています。
おわりに
 分子組織体の相互作用を理解したいと始めた表面力測定ですが、いろいろな未知の現象に出会い、何がわかるか、どうしたらわかるかと問いながら研究を続けてきました。幸い新しい展開をいくつか示すことができてきています。液体中の固体表面で起きる現象の研究への利用はその一つです。
 学生にとっては、未知のことが多く、測定技術の複雑さからも難しい研究ですが、基礎的な問いに向かい、現在の物質研究や工学研究の要素の多くを経験することは良い訓練ではないかと思っています。また企業から表面評価の相談にこられる場合も増えてきています。これら社会・工学との接点を大事にしながら、相互作用測定を中心手段として、多分子・溶媒中という現実に存在する物質の物理化学の発展に寄与したいと思います。本稿により、その研究の気分を幾分かお伝えできていれば幸いです。


くりはら かずえ

1951年生まれ
現職:東北大学 多元物質科学研究所教授
専門:界面化学、高分子、 生物物理学
関連ホームページ: http://www.icrs.tohoku.ac.jp/ labo/kurihara/main-j.html


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