[寄稿エッセイ]
陳 維昭=文
text by Chen, Wei-Jao
台湾大学と東北大学との交流関係締結に寄せて
古代賢者が喩えた光陰とはよく言った もので、仙台より台北に戻り、
早いものでもう25年という長い歳月が瞬く間に過ぎてしまいました。
この間、医学会や医局関係の会合などに参加するために
数回、東北大学を訪れてはいました。
昨年(西暦2000年)11月に仙台へ訪れたのは、台湾大学の代表として、
東北大学阿部総長との間で両校の交流協力関係樹立に関する協議書に署名すると
いう大事を目的としたものであり、私個人としても最も意義深いことでした。
私は1972年に、日本政府の奨学金を受け東北大学へ研究に参りました。当時、私は台湾大学医学院を卒業して六年
余りで、台湾大学付属病院の住院医師や医局長を歴任し、渡日の頃は、台湾大学付属病院の主治医師として働いておりました。
実は、日本留学前、外科の許書劍教授が日本へいらっしゃるのに同行し、
大阪の万国博覧会を参観し、その足で東北大 学を訪問したことがありました。その時、
初めて葛西教授に御目にかかれる機会に恵まれ、東北大学の思い出がしっかりと
心に深く刻まれたのでした。それがきっかけで、葛西外科で小児外科を研修しようと決心したのでした。
1972年4月、仙台の地に降り立った時は、まだ突き刺すような寒さが残っ ており、物寂しさを感じました。
寒さや 生活習慣に徐々になれつつあった同年10月のある日、テレビが突然、日台両国国交断絶のニュースを伝えました。
突然、舞い降りた 悪夢にも似たこの変化には、在日留学生も一時、呆 然となりました。どう対処すべきか知る由もなく、 ただただ未来へ の不安から今後どうなっていくのだろうか、政
策はまた変化する のだろうか、 奨学金の継続問題はどうなるのだろうかなど、心配が募るばかりでした。幸いにも日本政府の各施政に は変化もなく、学校当局や同僚たちも心遣いや優しさを示してくれました。留学生は、
心から日本政府の温情と人々の厚情に深く感謝の念を抱きました。
台湾大学付属病院へ復職後、日台の医学会には密接な関係があり、 互いに交流が盛んであることを初めて知りました。1993年の学長選に当選を果たし、 台湾大学の学長に就任してからは、積極的に学術交流を進め、アメリカ
やカナダの他、 オーストラリア、ヨーロッパ 及び周辺アジア諸国にまで対象を広げました。
私は日本留学経験を持つ最初の台湾大学の学長であるため、 特に日本の大学と協力関係を結ぶべく努力しようと思っておりました。 しかし、日本政府が、日本の国立大学と台湾の国立大学との間で如何なる正式な関係をもつことも、
また日本の国立大学の学長及び教授が台湾を正式訪問することも、禁止したのを知りました。 このため、日本との学術交流は阻害されたのでした。これは、中国大陸との立場を日本政府が考慮した現れでしょう。
とはいえ、1994年、私は台湾大学の同僚を連れ、北京へ参り、北京大学と両校交流協議書に署名いたしました。 当時の中国国家教育委員会副主任委員であり、また現在の教育部副部長である韋女史がその時、一席設けてくださり、
台湾大学と北京大学両校の学術交流を歓迎してくれました。ですから、先の政策を知った時は、日本政府のこのようなやり 方はなかなか納得のいくものではありませんでしたし、残念でした。
幸いに3、4年前、日本政府はやっと開放政策を採るようになり、台湾大学もこれを受け、早速、東京外国語大学をはじめ、 お茶の水女子大学、東京工業大学、 東京大学、北海道大学などと積極的に交流関係を結びました。
このような経緯を経て、今回、私の古巣である仙台に戻り 、我が母校である東 北大学と交流関係締結協議書に署名出来ることは、長き冬季を終え春を迎えたよ うな形容し難い感無量の気持ちでいっぱいでございます。結局、政治は政治に帰し、学術もまた学術に帰すというのは、
世界共通の真理なのだなあと実感しております。
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1939年生まれ
現職:国立台湾大学長
専門:小児外科・栄養与代謝
衛生行政与医院管理
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