[研究室からの手紙]
片平キャンパスに残る
明治時代の建築について
飯 淵 康 一=文
text by koichi Iibuti
片平キャンパスは、言うまでもなく東北大学発祥の地であり、戦災や取り壊しなどによって多くの建築が失われたものの、現存しているのも見られます。建築史を専攻する研究者として、私はここに残る古い建築を一度徹底的に調べてみたいと考えておりました。
私が助手の時代ですから随分前のことになりますが、まず現在どのような建築があるのか、過去はどうであったのかについての実態を知るため、大学施設部の倉庫に保管されている図面類を見せていただき、これをもとに学生の協力を得てリストを作成することにしました。
片平キャンパスは、東北帝国大学のみならず明治時代から旧制第二高等中学校(後、第二高等学校)や仙台医学専門学校、仙台高等工業学校、県立第一中学校(現、仙台一高)の敷地として用いられておりましたが、現在はすべて東北大学の管轄となっております。従って片平キャンパスには、さまざまなルーツを持つ建築が混在しているのです。
前に述べた図面のリスト作製は、現存する建築と照合しながら進めていったのですが、現存するものでもとの所属がつかめないものもありました。
北門より構内に入りますと旧桜小路に面して大学本部がありますが、その手前を左に折れると、急勾配の切妻屋根で木造二階建て下見板貼りの建築が現れます。一階の窓は引き違いですが、二階は上げ下げ窓であり、妻部分には小さな窓が開かれております。現在は職員集会所として使われていますが、一見して古い建築であることがわかります。しかし、これが本来どこのものであったのか全くわかりませんでした。東北大学記念資料室に勤めておられた文学部の故H先生は生き字引の様な方で、東北大学の歴史を知る第一人者でしたが、この先生にお伺いしても知ることができません。
言い伝えではこの建築は旧医学専門学校のものであり、後に、この場所に移築されたとされております。もし、そうであれば、当時の旧医専関係の資料にこの建築のことが記されてあるはずです。旧医専の当時の記録「仙台医学専門学校一覧」には建築配置図がとじ込まれてあります。そこで、これとの照合を図るため、まず、私たちは集会所を調査することにし、平面図、立面図、断面図の実測図を作製しました。その結果、平面の規模は9.4メートル四方の正方形であることがわかりました。しかしながら、医専の建築配置図を詳細に検討してみても、この規模に該当する建築を見い出すことはできません。旧医専の建築は魯迅が学んだ階段教室など二棟現存しておりますが、この集会所はこれらと外観の雰囲気も大分異なってもいるのです。つまり、この建築は言い伝えに反し旧医専のものではなかったのです。私たちは暗礁に乗り上げてしまったことになります。
そんなことで、調査を始めてから数年以上経ったある日、学生のK君が施設部の図面倉庫から二枚の図面を見つけてきました。それまで私たちが見逃してきた図面のようです。これには、立面図、構造図などが描かれておりましたが、なんと私たちが実測調査した図面と内容が極めて類似しているのです。これらは同一建物のものと考えられました。この図の名称は「東北帝国大学元法文学部教室及規模替工事設計図」であり、また、昭和7年度の書き入れもあります。従ってこの図面は、もとの法文学部教室を昭和7年度に、集会所の現在地へ移築し改造した時の姿を示したものと考えられたのです。この図面の発見をきっかけに職員集会所の創建時の所属が一挙に解明されることになったのです。
経過は複雑なので結果のみ申しますと、これはもとは旧二高の物理学教室であり、片平丁の旧二高正門に向けて、玄関を中心として化学教室と対称の位置に共に建ててあったものです。この教室は急勾配の階段教室でしたが、移築にさいし階段部分は取り壊されてしまいました。建築年代は明治24年以前と判明しました。この建築は片平地区に現存するものの中では最も古いものとなります。このような物理、化学の階段教室は旧二高のみならず、当時の旧一高、三高、四高、五高にも設置されておりましたが、これらの教室は配置計画から見ても優先されており、明治当時の高等教育において、これらの学問がいかに重視されていたかを窺うことができます。
実はその後、この設計図を入手することもでき、当時の具体的姿をより詳しく知ることができるようになりました。事情が許せば復元も可能かもしれません。改造はされているものの、さまざまな意味で貴重な遺産のひとつです。
いいぶち こういち
1946年生まれ
東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻教授
専門:日本住宅史・近代建築史