●阿 部 博 之 東北大学総長

 江沢民主席を大学にお迎えしたのは,穏やかな初冬の朝でした。
 文豪魯迅となる周樹人学生と藤野巌九郎教授との交流が、「不幸」という二文字に凝縮されて説明されてきた日中の歴史にどれだけ救いを与えてきたか、その計り知れない大きさを改めて受け止めた時間でもありました。
 魯迅の記録を展示した記念資料室で、江主席は、本学卒業生の蘇歩青教授の書に目を留められ、教授の近況についてお話をされました。予定外のことでありました。蘇教授が夫人を亡くされたとき弔問されたこと、最近病院にお見舞いに行かれたこと、96歳のご高齢ではあるがお元気であること、完全看護であり全く心配がないこと、のような主旨のご説明でした。佐々木重夫名誉教授著の数学教室の歴史によれば、蘇教授は、同じく本学の卒業生である陳建功教授と共に、中国の三大数学者といわれた大学者であります。加えて、学界はもちろんのこと、政府関係者で知らぬ人はいない、とさえ思える有名人であります。
 魯迅が学んだ階段教室の黒板には、ここを訪れた中国人の思いが連綿と書かれています。江主席は、魯迅の座席と伝えられるところに腰掛けられ感想を述べられたり、黒板の前で教室の設計を評価したりしておられました。
 私の専門は機械工学です、と申し上げたら、主席のご専門は電気工学である旨のご返事がありました。最後に車にお乗りになるとき、あなたは機械工学でしたね、と英語でお話になったことは驚きでありました。主席は、英語、ロシア語、ルーマニア語がご堪能とのことです。
 江主席には、ご見学の途中で揮亳をお願いする予定でした。東北大学における時間の有効性をお考えになり、前日深夜に、ホテルで書を準備されました。28文字の、歴史に則った日中友誼の漢詩です。ご配慮に対して心から有り難く思いました。
 二国間の歴史は、人と人との歴史であります。仙台で築かれた先人の絆は、これからも重みを増していくに違いありません。日中のよしみをこれからも伝えていこう、というのが江主席の漢詩の結びでありました。

(追記:中国の留学生のために献身された、菅野俊作名誉教授は奇しくもその朝急逝されました。前夜の歓迎晩餐会におけるお元気なお姿を思うと、信じられません。心からご冥福をお祈りいたします。)



●石 田 名香雄 元東北大学総長

 6年間(昭和58年から平成元年)東北大学長を勤めているあいだに数回、中国の方々の御来学をいただいた。大概のグループの方々は、石田が細菌学の教授であったこと、古い教室の移転の際に偶然、日露戦争時代のスライド(6cm×6cm)を見つけたことなどを御存知であったが、これにはほとんど興味を示されなかった。藤野先生の御親切も全て上海や北京の魯迅記念館で御覧になり知っておられた。
 一番誰もが訪れたかった場所は、魯迅が教えを受けた教室の座席である。階段教室の中央帯の前から3番目、右端近くが魯迅の定席で、私が学長の頃は白墨で印を付けておいた。御来仙の中国人は必ずそこに座って、写真を撮ってもらい更に黒板に自分の名と訪問の日を書き(遠慮する人も半分はいた。)いとも満足げであった。
 昭和61年に中国の国家教育委員会副主任の何東昌がわが国の文部省の重藤審議官と御出でになり、小職は仙台市博物館の後ろにある碑(翁朝盛先生作)を墓に仕立て、中国側と東北大側で左と右に大きな花環を並べ、初めての公式交流を行った。何となく神々しい雰囲気が流れた。
 副主任の来仙が決まるや小生も中国語会話の練習を始め、発音は大いに誉められたが、文章内容は短く、あとの面白い話は全て通訳を介した。
 東北大学への中国の留学生の半分は、大臣を党の大立者としてとらえ、中にはその理由で大臣の講話に出席しない人もいたわけである。この一事で初めて中国の大きさと広さが判った。またどなたが日本の文部大臣の時か忘れたが東北地方の中国人留学生を全部プラザホテルに招待していただいた。大臣と小生とで入り口で一人ひとりと握手したが、人民服の学生が大部分であったこと、一人ひとりの手がものすごく汗ばんでいたことを思い出す。このような歴史の瞬間を辿りながら、中国人が東北大学生の中に溶けこんでいった。
 昭和61年東北大学チベット学術登山隊によるニェンチンタングラ峰(7162m)の登頂成功を何東昌さんに一番喜んでもらった。また大臣は私と同じく大正12年の生まれであり、太白山などを眼下に見下ろしながら、どんな内容も漢字で書くと、意味するところ(仙台という名を含め)を直ちにお判りいただいた。同門同種同時代を心から感じた次第である。