シリーズ◎住環境を考える3 「私」だけが感じる騒音と振動 佐藤 裕一

 個人的に感じる騒音や振動は 訴訟は困難?!

 私が弁護士になって五年目位でしたので、もう二〇年も前のことですが、Yさんの相談のことは今もよく思い出します。ある自治体主催の無料法律相談が夕方近くになり、終了時間を迎えようとしていた時、相談者Yさんが来られました。五〇過ぎの女性で、ピアノ教師をしているとのことでした。Yさんの相談は一人暮らしをしているマンションの騒音と振動に関することでした。
 「住んでいるマンションの向かい側にある自動車修理工場から発せられる騒音と振動が気になってしまい、集中することができず体調に異変をきたしてしまいました。耳鼻科で診察を受け、特に異常はないと言われましたが、症状はひどくなる一方で、総合病院の内科、心療内科で診察を受けたのですが、器質的には何の異常もなく、騒音や振動を気にする余り、神経質になりすぎているという診断でした。今も毎日のように騒音や振動を感じて、時折パニックを起こしてしまいます。そこで精神科にも通って治療を受けていますが、心身症と診断されました。ピアノ教室は閉鎖している状況です。」
 「騒音と振動は修理工場から出ていることに間違いがありません。再三クレームを付けたのですが、相手にしてくれず、役所の公害対策課や警察署に話を持ち込んでも、何も対応してくれません。民間の公害研究所に依頼して騒音と振動を計測してもらったのですが、計測値は基準内だったそうです。マンションの管理会社に話しても、他の住人は誰一人も文句を言っていない、あなたが気にしすぎるのだという返事しか返ってきません。」
 Yさんは修理工場と自治体を被告にして損害賠償の裁判を提起し、真実を明らかにしたいと強く訴えていました。駆け出し弁護士の私は、辛抱強くYさんの話すことを聞きましたが、研究所の調査でも基準内であり、Yさんが精神科で心身症の診断を受けていることから、結論としては裁判はやめた方が良いとアドバイスしました。Yさんは不満そうでしたが、しぶしぶとした表情でマンションへ帰っていかれました。

 騒音・振動の原因は低周波と判明

 そんなYさんの相談のことなどもすっかり忘れていた私ですが、二ヶ月位たったある日、突然Yさんから事務所に電話がありました。その後更に別の研究所に調査を依頼したところ、何と騒音と振動の原因が低周波だったことが判ったとのことでした。修理工場にあるコンプレッサーが発生源であることも判明したそうです。低周波は感じやすさに個人差が大きく、ピアノを長く弾いているYさんは感覚が鋭敏なため感じたのだそうです。
 二〇年前はまだ低周波による公害などは一般的に問題となっておらず、私にとって思いもよらない結論でした。但し、一部の公害や環境を研究している学者の間では既に低周波の影響が指摘されていたのだそうです。
 住まいにおける騒音や振動が現実の住民にとっていかに重大な問題であるのか、そしてそんなYさんの苦しみや訴えを私は正面から受けとめて相談に取り組んだだろうか、何か別の原因がないのかともっと真摯に調べることを何故しなかったのだろうか。心療内科や精神科での診断によって先入観を持って臨んだのではなかったろうか。強い自責の思いが広がりました。Yさんの件は解決しましたが、この事件はその後私が法律相談の場や、事件処理をする際の相談者や依頼者に対する私の心構えとして、とても大きな意味を持つことになりました。




佐藤 裕一 佐藤 裕一(さとう ゆういち)
1954年生まれ
東北大学法科大学院 教授(実務家教員・弁護士)
専門/臨床法学教育、ローヤリング
弁護士法人杜協同 阿部・佐藤法律事務所


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