[研究室からの手紙]
仙台城石垣発掘調査の現場から
入間田宣夫=文
text by Nobuo Irumada
第1期の石垣の発見
仙台市史編纂のチームに加わり、伊達政宗の文書を求めて京都・天理・直江津に出かけたり、戦国の山城の遺跡を探しに秋保の山中に分け入ったり、政宗の仙台城の隠された施設を確かめに裏山の植物園の茂みに踏み込んだり、などしているうちに、数年あまりが経過してしまいました。自分の専門の勉強を生かして地域を元気づけたいという想いから始めたのでしたが、反対に、専門の勉強の方が元気づけられることが多いと感じさせられる昨今です。
そのような日々に、突然に、飛び上がるようなニュースが入ってきました。一昨年の晩秋のことです。仙台城の現存の石垣の裏側から、政宗の築いた古い石垣が発見されたというのです。
仙台市教育委員会による発掘調査の現場に駆けつけて見ると、確かに、ありました。自然の石に手を加えずに、そのままの姿で積み上げた石垣です。織田信長の安土城や豊臣秀吉の名護屋城に共通する、野面(のづら)積みと呼ばれる古いスタイルの石垣です。仙台開府の当初に、すなわち17世紀の冒頭に築かれた石垣の一部に違いありません。全国的にも、貴重な発見です。これが、第1期の石垣です。
そればかりではありません。その最初の石垣の大部分が、十数年後、1616年の大地震によって崩壊した後に、政宗によって築き直された石垣の一部も残されていたのです。こちらの方は、最初の野面積みと違って、鑿(のみ)による丁寧な整形加工が施されています。石垣の傾斜も、きついものになっています。これが、第2期の石垣です。
近世日本の土木技術の証
そうなると、現存の石垣は、第1期・第2期の石垣の大部分が崩壊した、さらにその後に、築き直されたものだ、すなわち、第3期の石垣だということにならざるをえません。そのつもりで、調べてみると、その第3期の石垣が築き直されたのは、17世紀後期(1668年)、4代藩主、綱村の時期に発生した大地震の後だということが分かってきました。第3期の石垣は、均等に切り揃えた石材を用いて、整然とした美観をかたちづくっています。石垣の傾斜も、より一層にきついものとなっています。
このように、場所を同じくして、3期に渡って重複して築かれている石垣の発掘調査によって、近世日本における土木技術の急激な発展が鮮明に印象づけられることになりました。試行錯誤を積み重ねながら、石材加工、裏込め構造、排水処理、など諸方面に渡る工夫を巡らして、問題解決に当たった先人の努力のプロセスが手に取るように感じられることになりました。そのような積み重ねがあったからこそ、第3期の石垣は、その後、300年あまりの風雪に耐え、今日まで存続することができたのです。そのような石垣博物館とも呼ばれるような貴重な遺跡を保存して、人類の未来に伝えたいという気持ちが、一同の間に、ふつふつと湧き上がってきました。
学際的・総合的な調査・研究を
仙台城石垣に関する古文書・古絵図を用いた調査は、これからが本番です。全国的に視野を広めて、安土城や名護屋城の石垣のほか、同時代の各地の城々の石垣についても、本格的な比較・検討の作業が必要です。
最近では、豊臣秀吉による朝鮮侵攻作戦によって築かれた倭城(韓国の南岸に30箇所余りが残されている)の石垣との比較・検討の必要性が、指摘されるようになっています。やらなければならないことが山積しています。
そればかりではありません。自然科学的なアプローチも、重要です。これまでに、東北アジア研究センターの佐藤源之教授によって、地中レーダー探査による調査が進められてきました。それによって、石垣の裏込め構造(階段状石列)や第一期石垣の広がりが発掘前の地表面から推定され、発掘によって確定されてきました。これから、ますますの探査技術応用の進展が期待されています。
いずれにしても、調査・研究における学際的・総合的なアプローチが、これまでに増して、求められている状況に変わりがありません。それにつけても、石垣保存の大事さを痛感せざるをえません。