東北大学・東北大学萩友会
第23号(2010年11月)

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東北大学萩友会 広報委員会委員
阿見孝雄 (1969年法学部卒)

《大学というところは学問のきっかけを作る場所である。
少なくともその雰囲気に触れ、 生半可の学問と真の学問との区別くらいを覚えるところである。》
精神科医から、「どくとるマンボウ」シリーズや純文学までの国民的人気の小説家へ。
北 杜夫
きた・もりお 本名は齋藤宗吉(そうきち)。1927年(昭和2)東京生まれ。東北大学医学部(昭和27)卒。精神科医、医学博士、小説家。日本芸術院会員。『夜と霧の隅で』にて芥川賞受賞。ベストセラー随筆「どくとるマンボウ」シリーズで著名。『どくとるマンボウ青春記』には仙台での医学生時代も活写。代表作に、仙台にて執筆の『幽霊』、齋藤脳病院創設の祖父齋藤紀一から養子の父茂吉へ続く齋藤家の歴史をモデルにした『楡家の人びと』(毎日出版文化賞)、ブラジル移民を描く『輝ける碧き空の下で』(日本文学大賞)、歌人父茂吉を描く「茂吉評伝の四部作」(大佛次郎賞)など。2009年『マンボウ青春記の仙台―北杜夫と東北大学医学部―』企画展を東北大学史料館にて開催。




 北杜夫こと齋藤宗吉は、アララギ派を代表する歌人で文化勲章受章者の齋藤茂吉の次男です。

 北の『どくとるマンボウ青春記』は、精神科医で文学者父茂吉への畏敬と自立の物語とも読めます。昆虫好きで動物学者に憧れた北に、「おっかない父」茂吉は医学部進学を厳命、泣く泣く志望転向。東京から離れ、父茂吉に内緒で詩や小説を書くにも好都合と東北大学を受験しました。
 これらの経緯が、若者特有の自意識と懊悩の叙情性を秘め、マンボウ流に愉快に楽しく表現。同書は、小説家北の出発点が分り、父と息子の葛藤と和解という普遍のテーマをも描く好著です。

 旧制麻布中学校(現在の麻布高校)時代、北は意外にも作文が苦手で小説も読まない少年でした。中学校の調査票の自己の欠点という項目に《文学的素養のなきこと》と隣席の生徒の記述を真似て書いたほどです。小説家北を育てたのは、東京っ子が、旧制高校を松本、大学を仙台と自然や人情の豊かな地方都市で青春を過ごし、自己成長の機会と自分を見つめなおす時間と環境を得たことも幸いしたのではないでしょうか。親元を離れ、素直に父茂吉の短歌に向き合い感激したことが、文学への開眼かもしれません。「東京っ子よ、地方に出よ」と言えそうな体験でしょう。
 東北大学は、親元離れの学生比率が八割以上。著名総合大学の中で断然一位の大学なのです。

 さて、終戦直後の1948年(昭和23)、北は旧制松本高校から東北大学医学部に入学。
《そこの医学部にはよい教授が多いという理由より、なにがなし仙台という名に憧れたのである。》との理由でした。信州松本という城下町と同じに《仙台にも、東北の木の香のごときものが漂っているだろう》との期待です。ところが、仙台は空襲で街の中心部があらかたやられていました。「仙台砂漠」と呼ばれていたほどです。五年間を仙台で過ごした北ですが、現在の日本一美しい並木道を持つと評される「杜の都仙台」の姿を、当時は想像すらできなかったことでしょう。 

 標記の言葉は、同書において、大学時代の保証人であった哲学教授河野与一とのエピソードに続いて吐露された大学観です。北自身の医学生としての怠惰や変人ぶりをおもしろ、おかしく描いていますが、東北大学時代に「真の学問」に触れていたことを、この言葉は伝えてくれます。
 河野はまさに碩学と呼ぶにふさわしい存在でした。当時はまだ食糧難の時代です。北は、河野宅で出される食物目当てに訪問。出された食事を食べることに夢中で、教わろうとは思いもしなかった、と当時の自分を後悔しています。

 医学部にも、「真の学問」を探求する教授たちが大勢いました。学部長は、X線間接狙撃装置の開発者で、胃の集団検診システムを実現した黒川利雄。病理学には「吉田肉腫」で知られる吉田富三。ふたりは後に文化勲章を受章、癌研究所でもチームを組んだ同士です。胸部の間接撮影法を世界で初めて発明し、放射線医学のパイオニアである古賀良彦も活躍。その教室からは、X線CTの先駆けとなった回転横断撮影法を開発、文化勲章を受章した高橋信次を輩出しました。まさに、多士済々の教授陣と研究者たちでした。

 筆者は、北の医学部学生時代の様子を、当時の同級生から聞かされたことが何度かあります。
 『宗吉(本名)は、とにかく変わっていた。いつも下駄履きで、しかも決まって遅刻だ。教授の講義の最中に、階段教室にガランゴロンと下駄の音を立てて入ってきては、途中でまた音を立てて出て行ってしまう。最初は唖然とするばかりだったが、そのうち慣れてしまったよ』
 『卓球ばかりしていたな。でも、憎めないところのあるおもしろい男だった。講義にはあまり出てこないのに、なぜか期末試験は合格してしまう。やはり、頭がよかったのかな』

 同書には、この話を裏付ける記述がありました。試験に関しては、試験前に松本高校時代からの友人のノートを借り抜書き、出題者の教授の身になって考えヤマを賭け、合格点の六十点を取れればよいと割り切り、答案作成の「秘術」を尽くした、とその工夫の数々が明かされています。

 北は、医学部を無事に卒業、祖父紀一(きいち)、父茂吉に続く精神科医になります。紀一は、日本の精神医学の歴史では必ず特筆される存在で、世評に名高い「脳病院」の設立者でした。祖父やその脳病院の様子は、自伝的な大河小説『楡家の人びと』に詳しく描写されています。

 ペンネーム「北杜夫」とは、北の愛読書トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』からとったものです。当初の案は、そのものずばり「北杜二夫」でした。松本や仙台といった寒い地方で過ごしたので「北」としました。将来、自分の作品が認められたら、東・西・南・北を使ったペンネームに次々に改名しようと思っていたそうです。その後、初めて同人雑誌『文芸首都』に投稿するときに「北杜夫」としました。
 北の「マンボウ」作品には、父茂吉の元から離れるための遊学が、かえって素直に歌人茂吉の短歌の世界に感動できたいきさつも、さりげなく、しかし何度もつづられています。

 その父茂吉の死去の知らせに、夜汽車で仙台から東京に向かう北の鞄の中には、ほぼ完成した北の最初の長編小説『幽霊』の原稿が入っていました。島崎藤村が『若菜集』にて「心の宿の宮城野よ」と歌った仙台が、いよいよ北の作家活動への旅立ちの地となったのです。
※文中敬称略。ルビ、カッコ内補注筆者。お子様などご家族にもお見せいただければ幸いです。当シリーズへの、ご意見、ご要望をお待ちいたします。
主な参考資料
▽『どくとるマンボウ青春記』 北杜夫著 中央公論社 1968年▽『どくとるマンボウ医局記』北杜夫著 中央公論社・中公文庫 1995年▽『この母にして』斉藤照子・北杜夫著 文藝春秋 1981年▽『どくとるマンボウ昆虫展』展示 旧制高等学校記念館(松本市) 2008年10月13日展示▽『マンボウ青春記の仙台 ―北杜夫と東北大学医学部―』東北大学史料館企画展パンフレット 東北大学史料館編集・発行 2009年9月12日から11月13日開催▽『北杜夫全集・第三巻 幽霊・木霊』 北杜夫著 新潮社 1977年


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